ゴーデスベルク綱領
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ゴーデスベルク綱領(ゴーデスベルクこうりょう、ドイツ語: Godesberger Programm)は、ドイツ社会民主党(SPD)の1959年から1989年までの綱領。

1959年11月、バート・ゴーデスベルク(現在ボンの一部)で開催された党大会で採択された。このため、この綱領はバート・ゴーデスベルク綱領とも呼ばれ、1925年のハイデルベルク綱領を破棄し、階級闘争を正式に放棄したことで知られている。
これにより、ドイツ社会民主党は階級政党から社会民主主義の国民政党への転換が図られ、やがて1969年のヴィリー・ブラントによる政権獲得にもつながることとなる。
その後、ドイツ再統一直前の1989年の党大会ではベルリン綱領が採択されている。
外部リンク
Godesberger Programm(ドイツ語)
ゴーデスベルク綱領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/24 05:37 UTC 版)
「エーリッヒ・オレンハウアー」の記事における「ゴーデスベルク綱領」の解説
1957年の連邦議会選挙にもSPDの首相候補として臨み、得票率はやや上がったものの、好景気を背景としたCDUはそれを上回る得票を得て絶対安定多数を獲得した。この結果を受けオレンハウアーは次の選挙に首相候補とならないことを決めた。またSPDを純粋な労働者のための政党から国民政党へ脱皮させるという政策転換を図る。前年の党首選挙で彼に挑んで敗れた西ベルリン市長のヴィリー・ブラントを支持し、彼やフリッツ・エルラーやヘルベルト・ヴェーナーといった現実派と新政策を協議し、1959年にゴーデスベルク綱領として発表された。それは西側諸国との同盟や再軍備というアデナウアーの政策に賛成し、かつ計画経済を拒絶するという現実主義に即した画期的なものだった。 1960年11月、党執行部はオレンハウアーの支持を得て、次期連邦議会選挙ではブラントを首相候補として立てることを決定した。翌年の連邦議会選挙でブラントは党勢を拡大したものの勝つことは出来なかったが、5年後にはCDUとの大連立政権を、そして8年後には初のSPD首班政権を樹立することになる。1963年9月の党大会でオレンハウアーは党首に再選されたが、3ヶ月後に肺炎のため急死した。死の5日後に連邦議会で国葬が行われ、党と労働組合にこそ労働者の生活向上があると終世信じ、党内のみならず政敵からもそのユーモアと公正さで敬愛された「党の兵士」が追悼された。
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