修正主義(ベルンシュタイン主義)と教条主義(カウツキー主義)
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「マルクス主義」の記事における「修正主義(ベルンシュタイン主義)と教条主義(カウツキー主義)」の解説
1895年にエンゲルスが死去してまもなく、ドイツ社会民主党(SPD)において正統派のマルクス主義者と見なされていたベルンシュタインが従来と異なる見解を党機関誌で発表しはじめた。プロレタリアートは非合法手段による国家権力の奪取ではなく議会制民主主義を通じた社会改良を目指すべきだ、というのが最大のポイントであった。彼は1899年の著書『社会主義の諸前提と社会民主党の任務』でその見解をまとめた。その内容は権力獲得の問題にとどまらず、哲学や経済学の領域にまでわたるマルクス主義の修正となった。 ベルンシュタインの主張は激しい論争を巻き起こし、「修正主義」と呼ばれて正統派マルクス主義の理論的指導者だったカール・カウツキーらによって批判された。マルクス、エンゲルスの著作で精通していたカウツキーは、両者の著作からの博引旁証によって修正主義を批判し、「マルクス主義の法王」と呼ばれた。1903年のSPDドレスデン大会は「階級闘争に基づくわれわれの戦術を、敵に打ち勝って政治権力を獲得するかわりに既存秩序に迎合する政策を採用するという意味で変更しようとする修正主義的企てには断固として反対する」と決議した。 とはいえ、ベルンシュタインの見解は理論的に拒否されただけであり、実践的に拒否されたわけではなかった。ドイツ社会民主党は実際には議会制民主主義のもとで勢力を伸ばしており、「敵に打ち勝って政治権力を獲得する」戦略が具体的に実行されたことはなかった。カウツキーもその戦略を具体的に提示することはなく、好機の到来を待つ姿勢にとどまった。そのため、マルクス主義を教条としてのみ擁護し、実践的に生かさなかったという意味で、カウツキーの見解は教条主義と呼ばれることが多い。 ドイツ社会民主党および第二インターナショナルは第一次世界大戦まではマルクス主義運動の国際的な中心だったが、戦争勃発の際にそれまでの反戦主義を捨てて社会愛国主義の立場をとったために権威を喪失して事実上崩壊し(「城内平和」)、ロシアのボリシェヴィキおよびコミンテルンにその地位を明け渡し、第二インターナショナルの残党は労働社会主義インターナショナルとなった。 第二次世界大戦後の1951年に社会主義インターナショナルの『フランクフルト宣言』で「共産主義はマルクス主義の批判的精神と相容れない偏狭な神学をつくりだした」と批判して社会民主主義は民主社会主義に発展し、1959年に採択したゴーデスベルク綱領でドイツ社会民主党はワイマール共和制崩壊まで続いたカウツキー主義の流れを公式に放棄した。
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