社会民主党の低迷
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「ヴィリー・ブラント」の記事における「社会民主党の低迷」の解説
この間社会民主党は野党としてこれらの政策に反対して、特に西側諸国との連携そして統合についてはドイツの再統一を難しくするものとして批判した。社会民主党のシューマッハー党首も反共主義者であったがドイツ再統一の可能性を執拗に追及していた。そして後任のエーリッヒ・オレンハウアーも再統一を最重要課題に掲げ東西分断の固定化につながるアデナウアーの西側統合路線に抵抗した。しかし西ベルリン市長となったブラントは、このような党内主流の考えには与しなかった。自ら西ベルリンを指揮する立場から見れば、自由な西ベルリンの維持は西側列強の支援なしには不可能であり、それはすなわち西側共同体、あるいは西側軍事同盟としっかり結びつくことが必要であり、自由な世界の防衛に積極的に参加することを意味していた。この1950年代に社会民主党は低迷を余儀なくされた。そして1953年6月17日のベルリン暴動で西ドイツ内では西側諸国との強固な同盟関係を望んでいた人々にとっては自分たちの考えが実証されたと感じ、西ベルリンのSPD内のエルンスト・ロイターのグループも同じであり、ロイターの死後にブラントとその周囲もますます強くそう思うようになった。1953年の第2回連邦議会選挙で得票率28.2%と低迷し党員も1950年の68万人が58万人に減少した。 1956年11月にハンガリー動乱が起こり、まだベルリン暴動の記憶が生々しい西ベルリンではシェーネベルクの市庁舎前広場で抗議集会が開かれた際に激高した市民がブランデンブルク門に向かったことで、ブラントは一触即発の事態を回避するために車の上からの呼びかけて、デモ隊をうまく西地区の記念碑に誘導して、ドイツ国歌を抵抗心を込めて歌おうと呼びかけて事態を鎮静化させた。このことでブラントはベルリン市民の心に残った。だがハンガリー動乱で再統一の可能性は薄らぎ、社会民主党は訴える力を失い、1957年の第3回連邦議会選挙で31.8%169議席に上昇したが、キリスト教民主同盟と社会同盟が50.2%270議席で過半数を許した。しかしベルリンでは、エルンスト・ロイターの後継者であったオットー・ズール市長が死去して、臨時の州党大会でベルリンSPDは賛成223、反対26でブラントを市長候補に推し、10月3日にブラントはベルリン市長に当選した。また翌年1月にそれまで2度敗れていた社会民主党の州委員長の選挙で163対124で勝って、ベルリンSPDのトップとなり、党内のライバルであったフランツ・ノイマンとの争いに決着がついた。
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