特攻隊取材録
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沖縄攻防戦の時期、各新聞紙上は特攻隊の戦果が第1頁に、そして他頁にも隊員の活躍が報道された。そのなかで都城基地に於て各社の特派員が直接取材した記事を以下に紹介する。 敵主力空母那覇近海に出現の情報がここ某基地部隊本部にもたらされた。神機到来、かねてこの日を待ち侘び待機中の精鋭陸軍特攻隊振武隊に出撃の命は下った。部隊本部に集まった隊長林少尉他、隊員の面は一瞬殺気を帯び、決意の色がありありと漲った。出撃を前に狭い本部の一室でささやかな壮行の宴が催された。大きい日の丸の国旗を前に並べられた二つの机には今を盛りと咲き誇る桜花二枝、一死報国の精神に生きる神鷲の壮途を祝福している。神鷲達のこの壮途を祝う部隊長は「皇国の興廃はこの一戦に決す。諸子はしっかり落ち着いてこの大任を果たすように」最後の訓辞を与えれば林隊長は誓って大任を果たさんことを力強く誓った。壮行の宴といっても僅かに料理は鯣だけ最後の杯をぐっと飲み干す隊員の顔は何等平常と変わるところがない。この日○○航空部隊指揮官はこの基地を親しく訪れ出撃直前に隊員一同に烈々肺腑をつく訓辞を与えたのだった。神機まさに到来せり、満を持していた本隊に出撃の命は下ったのだ。諸子は今までさぞかし髀肉の嘆に堪えなかったことであろう。しかし飛行団は余が手塩にかけた新鋭の隊である。その威力を十分に発揮されるよう期待する。日露戦争の時東郷元帥は敵の艦隊主力を撃滅し勝利の鍵を得たように諸子の挙げる成果がこの戦局を一大展開せしめることを期待している。 隊員の一人々々は軽い微笑さえ堪え、五体に必殺の闘魂をみなぎらして言葉少なに語るのだった。やがて、出撃の時は来た。航空部隊指揮官を始め親鷲部隊長、基地勤務員の人々の心からなる見送りを受け、「国宝神鷲大為報国」墨痕鮮やかに書かれた日の丸の鉢巻をぐっと引き締め、林隊長以下全員機上の人となった。絶好の攻撃日和、爆音高らかに砂塵を蹴って悠久の大義に生きる特攻隊員はここに出撃したのだ。 (朝日 20・4・10掲載) 出撃を前にした若武者の心境は一様に「平常心」と答える。「今さら何も言うことはない。我々の花嫁は空母です。自分達はアメリカの艦隊を引き連れて三途の川を渡るのです。」振武隊のマークを作ろうという提案があった。よかろうと隊員は一生懸命に頭をひねった。もう桜の花も面白くないというので将棋の飛車をとってはどうだと誰かが言った。スーと飛んで良いぞという。すると傍らから、「いや「香車」が良い。これなら突っ込んだら還らぬ俺達と一緒じゃわい。」マークは結局「香車」と決りかけた。だが「おい香車も成金になっては困るぞ」というのでとうとうマークは暫くお預けとなった。なんと淡々たるあまりに高い若人の心境であろうか。 (日向日々 20・4・22掲載) 我々はただやっつけるだけです。世間でよく神鷲だ、特攻隊だ等と喧しく言われますが正直なところちょっとくすぐったくて困ります。他の基地にいた時から現在まで色々地方の皆さんに一方ならぬもてなしを受けましたが勿体なくてなりません。我々空中勤務者はつまらぬことは考えている暇がないし、只どてっ腹にデーンとぶっつけるだけ、それだけなんですよ。さあ、諦め?そんなことは考えたこともないが強いて言うなら普通の諦めはマイナス、諦めたその瞬間から前進もなければ何もない。我々には大きな任務がある。願望がある。言わばプラスですな。(朝日 20・6・12掲載) どうか後を頼みます国民の皆が本当に死ぬ気で頑張ったらこの戦争は必ず勝ちます。英国では40キロのドーバー海峡まで追い詰められながら結局最後にドイツを打ち負かしているではありませんか。それに比べたらまだ沖縄から九州まで600キロもあるのです。要は「必勝の信念」これだけですよ。(読売報知 20・6・12掲載) 戦争の苛烈さを本当に見極めた日本人だったら誰でも特攻精神を把握するでしょう。私達がこうして何か特別な人間のように扱われるのもまだ一億が本当に戦争の酷しさを感じていないからではないでしょうか。元寇の昔には特攻隊が生まれなかったということは元軍を邀えた当時の日本国民が一人残らず特攻精神に徹していたからではないでしょうか。だからこそあの大国難も突破出来たのでしょう。自分はこの戦いにも特攻隊が必ずや特別視されなくなる時が来ると信じております。その時にこそ自分達の死に花が咲く時ですよ。 (読売報知 20・6・27掲載)
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