無調への試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 00:08 UTC 版)
「アルノルト・シェーンベルク」の記事における「無調への試み」の解説
若い頃の彼はブラームスに傾倒していたが、のちツェムリンスキーに師事し、師の影響でヴァーグナーの音楽にも目覚め、また、ツェムリンスキーとともにマーラーの家に出入りして音楽論をたたかわせたり、彼の交響曲について好意的な論文を記述したこともある。ブラームスとヴァーグナーという異なる傾向を結びつけるような音楽を書いた点はツェムリンスキーと共通している。 初期は『ペレアスとメリザンド』や『浄められた夜』など、後期ロマン主義の作品を書いていたが、その著しい半音階主義からやがて調性の枠を超えた新しい方法論を模索するようになる。『室内交響曲第1番』は後期ロマン派の大規模な管弦楽編成からあえて室内オーケストラを選び、4度を基本とした和声を主軸とした高度なポリフォニーによる作品となっている。これ以降、彼の実験は更に深められ、次第に調性の放棄=無調による作品を志向するようになっていく。1900年から書き始められ1911年に完成した『グレの歌』は、巨大な編成と長大な演奏時間をもち、カンタータ、オペラ、連作歌曲集などの要素が融合した大作である。しかし、基本的な構想は1901年までに書かれているため、音楽的には『ペレアスとメリザンド』などと同様後期ロマン派の様式となっており、ある意味、後期ロマン派音楽の集大成であり頂点であるともいえる。しかし、楽器法などには中期のスタイルがみられる。 1908年、弦楽四重奏曲第2番(1907年~1908年)のソプラノ独唱付きの終楽章と、歌曲集『架空庭園の書』(1908年~1909年)で初めて無調に到達した、とされることも多い。1909年に書かれた『3つのピアノ曲』op. 11や『5つの管弦楽のための小品』op. 16、モノドラマ『期待』op. 17では、多少調性の香りを残していたが、無調の様々な可能性が試みれられた。『6つの小さなピアノ曲』op. 19(1911年)で、調性をほぼ完全に放棄するに至った、とする見解もある。これらの実験から傑作歌曲集『月に憑かれたピエロ』(ピエロ・リュネール)が生まれる。 『月に憑かれたピエロ』は『期待』の成果を更に推し進めて生み出されたと言ってよいかも知れないが、着想などは更にユニークである。ラヴェルやストラヴィンスキーに影響を与え、前者が『マラルメによる3つの歌』を、そして後者が紀貫之の短歌等による『日本の3つの抒情詩』を作るきっかけとなった。そして後のブーレーズらにも影響を与えた傑作である。物語の朗唱を室内楽で伴奏をするという方法が、かつてなかったとは言えないまでも、これほどにまで高められた作品は皆無で、またかつて無い効果をあげた伴奏の書法も全くユニークな傑作であった。 ただ、時代は無調の音楽に対する準備が出来ていたとは言えなかった。ストラヴィンスキーの『春の祭典』で大騒ぎとなるような時代で、無調の音楽は一部のサークルの中だけのことであった。ウィーンの私的演奏会で聴衆が怒り出してパニックになったり帰る人が続出したのは当然であった。しかし、指揮者のシェルヘンなどが積極的にこれらの音楽を後押しし、演奏してまわったことで、シェーンベルクなどの音楽が受け入れられるようになっていく。 同じ頃、弟子のアルバン・ベルクは『クラリネットとピアノのための5つの小品』op. 5や『管弦楽のための3つの小品』op. 6などで、無調(あるいは拡大された半音階主義)の作品を発表し、アントン・ヴェーベルンも師シェーンベルクにならって『6つの小品』op. 6を書いているが、シェーンベルクはバランス感覚に優れ、ベルクはより劇的で標題性を持ち、ヴェーベルンは官能的なまでの音色の豊穣さに特徴があり、明確な個性の違いがあるのは興味深い。
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