(異端)無効化裁判と復権 1455年・1456年
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「ジャンヌ・ダルク復権裁判」の記事における「(異端)無効化裁判と復権 1455年・1456年」の解説
それにもかかわらず、1453年5月29日の東ローマ帝国の崩壊は、十字軍を組織しようと試みた教会を混乱させ、同年7月8日のコンスタンティノープルの陥落により、ほぼ1年間、ジャンヌの復権裁判の正規の訴訟手続きが進まなかった。ジャンヌの生存している家族、彼女の母親のイザベル・ロメと2人の兄ピエール・ダルク(フランス語版)とジャンは、民事訴訟の原告になるよう託される。ダルク家は、教会法学士で元大学総代のピエール・モージエを弁護士として選び、多くの代理人を指名した。その中でもっとも重要な代理人のギヨーム・プレヴォストーは、デストゥートヴィルにより裁判の発起人に指名されていた。1454年、ブレアル異端検察総監はローマに赴き、教皇ニコラウス5世と謁見し復権裁判開始を求める請願書を提出した。1455年6月11日、前教皇死去後、後継者である新しい教皇カリストゥス3世は、この嘆願に応じてダルク家に誓願提出の権利を与え、フランスの高位聖職者の3名を、ブレアル異端検察総監に協力し、前回の審理を審査し正当な判決を行うための委員に任命した。3名はランス大司教のジャン・ジュヴナル・デ・ジュルサン、クータンス司教のリシャール・オリビエ、パリの司教ギヨーム・シャルティエであった。 3名のうち、ランス大司教は最も権威があり、フランス最高の聖職者の地位であった。ランス大司教は、1432年からボーヴェー教区の裁治権を有していた。この教区は1431年にジャンヌが有罪とされた教区であった。彼はまた、ガリカニスムの支持者でもあり、教皇カリストゥス3世とデストゥートヴィルがフランス教会の事件に干渉することに非常に関心を持っていた。だが、シャルル7世が異端者と魔女を使って彼の王国を回復したがゆえに異端者であるという主張については憂慮していた。 1455年11月7日、パリのノートルダム大聖堂でジャンヌの復権に向けての裁判が開始された。 母親のイザベルが高位聖職者達と大勢の群衆の前で悲痛な嘆きとともに請願書を読みあげ、委員の1人が教皇返書を代読した。イザベルの嘆きの言葉は、群衆に感動を巻き起こした。聖職者達は母イザベルに慰めの言葉をかけ、ジャンヌの無罪を明らかにするため全力を尽くす決意であると語った。 「私には、正式な結婚で生まれた娘が1人いました。私は娘にきちんと洗礼と堅信の秘蹟を受けさせ、神を敬い教会の伝統を重んじるように育てました。年齢や、牧場や畑のなかという素朴な環境の許す範囲ではありましたが、娘はよく教会に通い、毎月告解をして、聖体も拝領していました。(略)しかし、娘は信仰面から離れたり信仰を否定したりするようなことを、なにひとつ考えたり、口にしたり、行ったりしたことはないのに、敵の人々は(略)娘を宗教裁判にかけました。そして娘の異議申し立てや訴えにも耳を貸さず、不実で、乱暴で、きわめて不公平な、正しさのかけらもない裁判において、犯罪的なやり方で娘を有罪にし、残酷にも火刑に処したのです。」 — 『奇跡の少女ジャンヌ・ダルク』 99頁 上訴手続には、ヨーロッパ各地の聖職者が含まれ、標準的な裁判手続きが進められた。神学者の審査員は、115人の証人の証言を分析した。ほとんどの証人は、多かれ少なかれ彼女の純潔性、誠実さ、そして勇気を証言していた。証人には、彼女を裁判にかけた多くの陪席者が含まれていた。彼女の子供時代を知っていた数十人の村人、彼女の従軍中に仕えていた多数の兵士、包囲攻撃の解除中に彼女に会ったオルレアンの市民など、ジャンヌの人生の鮮やかで感情的な詳細を提供した多くの人々がいた。1431年の審理の詳細で、ジャンヌが拷問されていたかどうかについて、当時の刑史は、そのようなことは行われなかったと証言している。1456年6月、最終的な諸記録が採択された後、審理の全記録がブレアル異端検察総監に届けられた。ブレアルは、全記録の分類および再検討を開始し「審理集成」を作成した。 1456年7月7日、法廷は「虚偽の論告諸箇条」による前判決を破棄し、ジャンヌの有罪判決の無効を宣言した。ランス大司教が教皇指名委員の名で判決文を読み上げた。審理の土台となった論告諸箇条の一部の記録が象徴的に破られた。 「・・・我らの法廷に位置をしめ、神のみ前に、我等教皇委員は・・・前記の審理と処刑判決は、欺瞞、中傷、不正、矛盾、それに事実面においても法律面においても、改悛および刑の執行とそれらの結果を含めて、明白な過誤に汚されているがゆえに、無効であり、価値なく、効果を有せず、破棄されるべきものと明言し、布告し、宣言するものである・・・」 — 『ジャンヌ・ダルク復権裁判』 341頁 この日を記念し、厳粛な行列がルーアンだけでなく全フランス王国で行われた。ブレアル異端検察総監はブイエを伴い、国王および教皇など関係した権威筋に事件の結末についての公式の報告を行った。2人はフランス各地で祭典を主催し、7月21日には喜びに沸き立つオルレアンの町で祭典が行われた。2年後の1458年、ジャンヌの母イザベル・ロメはオルレアンで死去した。最後まで母親としての勤めを果たし、道を誤った聖職者たちによって追放された教会への娘の厳かな復帰を成就させた。 1909年の列福、1920年の列聖に至る調査に依拠したものは、この復権裁判の記録であった。
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