無効化裁判と復権 1455年・1456年とは? わかりやすく解説

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(異端)無効化裁判と復権 1455年・1456年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 23:21 UTC 版)

ジャンヌ・ダルク復権裁判」の記事における「(異端)無効化裁判と復権 1455年・1456年」の解説

それにもかかわらず1453年5月29日東ローマ帝国崩壊は、十字軍組織しよう試みた教会混乱させ、同年7月8日コンスタンティノープルの陥落により、ほぼ1年間ジャンヌ復権裁判正規訴訟手続きが進まなかった。ジャンヌ生存している家族、彼女の母親イザベル・ロメ2人の兄ピエール・ダルクフランス語版)とジャンは、民事訴訟原告になるよう託されるダルク家は、教会法学士で元大学総代のピエール・モージエを弁護士として選び多く代理人指名したその中でもっとも重要な代理人のギヨーム・プレヴォストーは、デストゥートヴィルにより裁判発起人指名されていた。1454年ブレアル異端検察総監ローマに赴き、教皇ニコラウス5世謁見復権裁判開始求め請願書提出した1455年6月11日、前教皇死去後後継者である新し教皇カリストゥス3世は、この嘆願に応じてダルク家に誓願提出権利与えフランス高位聖職者の3名を、ブレアル異端検察総監協力し前回審理審査し正当な判決を行うための委員任命した。3名はランス大司教のジャン・ジュヴナル・デ・ジュルサン、クータンス司教のリシャール・オリビエ、パリ司教ギヨーム・シャルティエであった。 3名のうち、ランス大司教は最も権威があり、フランス最高の聖職者地位であったランス大司教は、1432年からボーヴェー教区の裁治権有していた。この教区1431年ジャンヌ有罪とされた教区であった。彼はまた、ガリカニスム支持者でもあり、教皇カリストゥス3世とデストゥートヴィルがフランス教会事件干渉することに非常に関心持っていた。だが、シャルル7世異端者魔女使って彼の王国回復したがゆえに異端者であるという主張については憂慮していた。 1455年11月7日パリノートルダム大聖堂ジャンヌ復権向けて裁判開始された。 母親イザベル高位聖職者達と大勢群衆の前で悲痛な嘆きとともに請願書読みあげ、委員1人教皇返書代読した。イザベル嘆き言葉は、群衆感動巻き起こした聖職者達は母イザベル慰め言葉をかけ、ジャンヌ無罪明らかにするため全力尽く決意であると語った。 「私には、正式な結婚生まれた娘が1人いました。私は娘にきちんと洗礼堅信秘蹟を受けさせ、神を敬い教会伝統重んじるように育てました年齢や、牧場や畑のなかという素朴な環境の許す範囲ではありましたが、娘はよく教会通い毎月告解をして、聖体拝領しいました。(略)しかし、娘は信仰面から離れたり信仰否定したりするようなことを、なにひとつ考えたり、口にしたり、行ったりしたことはないのに、敵の人々は(略)娘を宗教裁判かけました。そして娘の異議申し立て訴えにも耳を貸さず不実で、乱暴で、きわめて不公平な正しさのかけらもない裁判において、犯罪的なやり方で娘を有罪にし、残酷に火刑処したのです。」 — 『奇跡少女ジャンヌ・ダルク99上訴手続には、ヨーロッパ各地聖職者含まれ標準的な裁判手続き進められた。神学者審査員は、115人の証人の証言分析した。ほとんどの証人は、多かれ少なかれ彼女の純潔性、誠実さ、そして勇気証言していた。証人には、彼女を裁判にかけた多く陪席者が含まれていた。彼女の子供時代知っていた数十人の村人、彼女の従軍中に仕えていた多数兵士包囲攻撃解除中に彼女に会ったオルレアン市民など、ジャンヌ人生の鮮やかで感情的な詳細提供した多く人々がいた。1431年審理詳細で、ジャンヌ拷問されていたかどうかについて、当時の刑史は、そのようなことは行われなかったと証言している。1456年6月最終的な諸記録採択された後、審理の全記録ブレアル異端検察総監届けられた。ブレアルは、全記録分類および再検討開始し審理集成」を作成した1456年7月7日法廷は「虚偽論告箇条」による前判決破棄しジャンヌ有罪判決無効宣言したランス大司教教皇指名委員の名で判決文読み上げた審理土台となった論告箇条一部記録象徴的に破られた。 「・・・我ら法廷位置をしめ、神のみ前に我等教皇委員は・・・前記審理処刑判決は、欺瞞中傷、不正、矛盾、それに事実面においても法律面においても、改悛および刑の執行とそれらの結果含めて明白な過誤汚されているがゆえに、無効であり、価値なく、効果有せず破棄されるべきものと明言し布告し宣言するのである・・・」 — 『ジャンヌ・ダルク復権裁判341頁 この日を記念し厳粛な行列ルーアンだけでなく全フランス王国行われたブレアル異端検察総監ブイエ伴い国王および教皇など関係した権威筋事件の結末についての公式の報告行った2人フランス各地祭典主催し7月21日には喜び沸き立つオルレアンの町で祭典が行われた。2年後1458年ジャンヌの母イザベル・ロメオルレアン死去した最後まで母親として勤め果たし、道を誤った聖職者たちによって追放され教会への娘の厳かな復帰成就させた。 1909年列福1920年列聖に至る調査依拠したものは、この復権裁判記録であった

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