灯籠について(概説)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 18:15 UTC 版)
役七夕の灯籠は城郭型と称するものだが、上部の鯱飾りが高さの半分近くを占める形態となっている。能代の七夕灯籠の形態は、天保期に地元の大工、宮腰屋嘉六によって制作された名古屋城天守を模した灯籠が好評を博したことから、幕末期に城郭型灯籠に統一されていったものと考えられている。この元来の城郭型灯籠は、現在の「天空の不夜城」の形態に近いものであり、鯱が巨大化した後代の姿とは異なる。役七夕の灯籠が鯱の大型化という変化を遂げたのはやはり昭和戦後であり、電話線の普及が背景にあった。電線に比べて電話線は低く張られたことから、灯籠全体の高さを抑え、鯱飾りを後ろに倒してクリアランスを確保する工夫がされるようになったのである。城郭型の灯籠は、城という政治権威への憧憬と、反面幕末期において現実の政治権力が失墜していく過程に対しての能代の町人の結束という二つの背景から受容されていったと言えるものだが、戦後の鯱の巨大化とその土台となる城郭の縮小は、元来七夕灯籠が持っていたこうした物語性を遠ざけることとなった。一方で、鯱の大型化は鯱流し行事に迫力をもたらし、また鯱飾りを倒して電線の下を潜り抜ける姿も、この祭りの見どころとなっている。
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灯籠について(詳説)
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役七夕の灯籠各部説明 天空の不夜城『嘉六』の各部説明 概要節で述べた通り、能代の七夕灯籠は、後に鯱の大型化という変遷を辿ったものの、その形態は城郭型が基本である。この城郭型灯籠は、天保期に地元の大工、宮腰屋嘉六が制作した名古屋城天守を模した七夕灯籠が好評を博したことから以後定着したと伝わり、「嘉六」は「天空の不夜城」の灯籠にその名をとどめている。 ところで、能代の七夕灯籠が城郭型に収れんされた時期を、明治後期とする見解がみられる。これは明治中期に能代に来遊した放浪画家、蓑虫山人(本名:土岐源吾)の記した旅日記に、酒樽や猩々、鯛やねぶた風の武者人形像など、多種多様な趣向の灯籠が描かれていたことを主な根拠とする。しかし、彼の素描には明らかに別の祭りである秋田の竿燈が一緒に描かれていたり、城郭型灯籠に鯱飾りがなく江戸時代後期に残された絵図よりも描写の正確性が後退しており、実際に観察見聞したのか信頼性を欠く面がみられる。むしろ、幕末期に描かれた灯籠の絵図がいずれも城郭型であり、それ以外の形態の絵が残されていないこと、また当番町の役割が伝統の継承と遵守にあり、加勢丁の灯籠も当番町の役七夕に倣うのが自然であることを考え合わせると、能代の七夕灯籠は城郭型が基本であり、その成立時期は幕末期に遡るものと考えられる。 灯籠の形態は最上部の鯱飾りから順に、鯱の基部となる本丸御殿、本丸御殿の四隅に配置される隅御殿、その下の各段はそれぞれ雲、松、桜、波を画題とした雲灯籠、松灯籠、花灯籠、波灯籠(船灯籠とも呼ばれる)となっており、その下に台車である担木(たぎ)がある。また、花灯籠の正面部分には日吉神社の鳥居と社殿が描かれ、背面には同じく八幡神社の社殿が描かれて、能代の町創建当初からの2つの鎮守の神社がモチーフに取り込まれている。なお、昭和初期までは波灯籠(船灯籠)の下に幕灯籠と台灯籠があったが、灯籠の高さが圧縮される過程で省略されていったとされる。これに対し明治後期の大型灯籠の姿を復元したとされる「天空の不夜城」の灯籠『嘉六』では、上から順に「鯱と天守閣」、その四隅の「櫓」、天守閣・櫓の基部となる「石灯籠」、中層部の2段が「松」、その下に「桜」が入り、さらにその下に「波灯籠」、「花灯籠」があって最下層に紅白幕があり、役七夕の灯籠の構成とは順序に相違がみられる。もう1基の大型灯籠『愛季』では、天守閣と鯱、隅櫓までの構成は同一だが、その下の各段は安東愛季の生涯の場面などを武者絵風に紹介したものであるために、役七夕の伝統的な様式には則っていない。
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