清:洋務派と自強論とは? わかりやすく解説

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清:洋務派と自強論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 20:57 UTC 版)

八戸事件」の記事における「清:洋務派と自強論」の解説

19世紀半ば二次にわたるアヘン戦争敗北した清朝は、ヨーロッパ諸国列強)の軍事的優位に直面した清国内でも近代化必要性感じていた曽国藩李鴻章ら、「洋務派」と称され漢人官僚たちにより、1860年代から中体西用論に基づく洋務運動展開されていた。その際1850年代開国した日本は、武器艦船購入製造留学生欧米派遣など「自強政策推進している手本になるという見方と、明代からの倭寇豊臣秀吉による朝鮮出兵イメージあいまって清にとって将来的脅威となりうる、といった両面見方存在していた。 アヘン戦争敗戦後、清は欧米諸国締結した南京条約北京条約などにより、広州1港のみで対外貿易行っていた従来広東システム体制から、追加開港場となった上海などを中心とした新たな貿易外交体制を築くため、咸豊11年1861年)に総理各国事務衙門設置していた。従来公的な通交関係を持たなかった日本また、開国して間もなく、この新たな枠組み参加すべく、1862年江戸幕府千歳丸上海派遣しオランダ領事館を介して清朝交渉していた。しかし清朝側は日本欧米諸国同列(有約通商之国)に引き上げることは望んでおらず、その後2度交渉頓挫していた(詳細広東システム#広東システム停止その後参照)。 洋務派の意見リードする李鴻章は、この時点直に日本人会ったことは無かったが、1864年には総理衙門送った洋式火器製造に関する書簡の中で、日本脅威言及している。李鴻章は、西洋では火器製造は「身心性命の学」と考えられ国家的な事業として重視されているとして、中国もこれに倣うべきことを日本の例を挙げて次のように論じている。 英仏日本苛斂誅求な行いをしたため日本君臣発憤して宗室および大臣の子弟を選んで西洋武器工場派遣し各種技術を学ばせ、工作機械購入して武器国産ようとしている。すでに蒸気船操縦砲弾生産が可能である。英国日本武力威嚇したが、日本優秀な武器保有していたため、どうすることもできなかった(生麦事件1862年)から翌年薩英戦争経緯指していると思われる)。日本明代倭寇であり、西洋から遠く中国からは近い。もし中国が「自立できれば日本味方となり西洋対抗するだろうが、「自強」できなければ日本西洋倣って中国侵略参加する側となるだろう。日本小国とはいえ時期を逸さず国家方向転換しつつある。中国日本倣って変革すべきであるこのように清朝指導者である李鴻章は、日本に対して自強」の成果認めつつも一定の警戒心持っていた。そんな中日本朝鮮攻撃計画しているという新聞記事出たことで、清朝官僚日本への脅威現実のものとなった意味は大きい。朝鮮清にとって属国であり、それを狙うという日本への警戒高まった。しかも当時朝鮮ではすでにフランスとの間の武力紛争起きていた上、米国船ジェネラル・シャーマン号への襲撃事件発生し朝鮮側シャーマン号を英国船と誤認したまま、事件概要清国礼部報告していた。在清米国公使館よりシャーマン号の行方不明について問合せ受けていた総理衙門は、朝鮮からの報告にある英船が実はシャーマン号なのではないか疑い朝鮮フランス加えて米英との紛争巻き込まれることを恐れていた。そうした状況下、八戸征韓記事掲載されのである総理衙門は、八戸記事がもし事実であった場合英仏米などよりも日本の方が清(および朝鮮)にとって重大な脅威になりうると判断したというのも日本朝鮮出兵計画英仏米など他国の動き乗じたものかどうか分からないが、もし日本朝鮮占領すれば、清と隣接することになり、フランス侵略比べて脅威はさらに高まるからである。総理衙門は、このように八戸記事現実起きうる脅威受け止め礼部通じて朝鮮に密咨と5件の新聞情報(照録)を送り実情調査させることを上奏したのである。ただし清が八戸事件に関して直接日本徳川幕府何らかの働きかけを行うことはなかった。当時日本は清の朝貢国でもなく、新たな関係について交渉中の段階過ぎず表向き公的関係がなかったためである。 この事件清朝政府朝鮮行った対応は、倭寇記憶日本の「自強」という認識元に朝鮮問題限って言えば英仏米などの列強よりも日本脅威をより重視していたことを示している。本来、1861年総理衙門という機関設置されきっかけとなった上奏文では、清にとって英仏米よりも領土的野心をもつロシアがより危険であるという対外観が表明されていたが、1870年代以降海防・塞防論争においては日本ロシア同じく清国の主敵であるとの認識が高まる。この認識江華島事件琉球処分通じてより広まっていくが、八戸事件こそがその端緒になったと言える

※この「清:洋務派と自強論」の解説は、「八戸事件」の解説の一部です。
「清:洋務派と自強論」を含む「八戸事件」の記事については、「八戸事件」の概要を参照ください。

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