清:洋務派と自強論
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19世紀半ば、二次にわたるアヘン戦争で敗北した清朝は、ヨーロッパ諸国(列強)の軍事的優位に直面した。清国内でも近代化の必要性を感じていた曽国藩・李鴻章ら、「洋務派」と称された漢人官僚たちにより、1860年代から中体西用論に基づく洋務運動が展開されていた。その際、1850年代に開国した日本は、武器艦船の購入製造、留学生の欧米派遣など「自強」政策を推進している手本になるという見方と、明代からの倭寇や豊臣秀吉による朝鮮出兵のイメージもあいまって、清にとって将来的な脅威となりうる、といった両面の見方が存在していた。 アヘン戦争の敗戦後、清は欧米諸国と締結した南京条約・北京条約などにより、広州1港のみで対外貿易を行っていた従来の広東システム体制から、追加の開港場となった上海などを中心とした新たな貿易・外交体制を築くため、咸豊11年(1861年)に総理各国事務衙門を設置していた。従来公的な通交関係を持たなかった日本もまた、開国して間もなく、この新たな枠組みに参加すべく、1862年に江戸幕府が千歳丸を上海に派遣し、オランダ領事館を介して清朝と交渉していた。しかし清朝側は日本を欧米諸国と同列(有約通商之国)に引き上げることは望んでおらず、その後2度の交渉も頓挫していた(詳細は広東システム#広東システム停止とその後を参照)。 洋務派の意見をリードする李鴻章は、この時点で直に日本人と会ったことは無かったが、1864年には総理衙門に送った洋式火器の製造に関する書簡の中で、日本の脅威に言及している。李鴻章は、西洋では火器製造は「身心性命の学」と考えられ国家的な事業として重視されているとして、中国もこれに倣うべきことを日本の例を挙げて次のように論じている。 英仏は日本に苛斂誅求な行いをしたため、日本の君臣は発憤して宗室および大臣の子弟を選んで西洋の武器工場へ派遣し、各種の技術を学ばせ、工作機械を購入して武器を国産しようとしている。すでに蒸気船の操縦や砲弾の生産が可能である。英国が日本を武力で威嚇したが、日本も優秀な武器を保有していたため、どうすることもできなかった(生麦事件(1862年)から翌年の薩英戦争の経緯を指していると思われる)。日本は明代の倭寇であり、西洋から遠く中国からは近い。もし中国が「自立」できれば、日本は味方となり西洋に対抗するだろうが、「自強」できなければ、日本は西洋に倣って中国侵略に参加する側となるだろう。日本は小国とはいえ時期を逸さず国家の方向を転換しつつある。中国も日本に倣って変革すべきである。 このように清朝の指導者である李鴻章は、日本に対して「自強」の成果は認めつつも一定の警戒心を持っていた。そんな中、日本が朝鮮攻撃を計画しているという新聞記事が出たことで、清朝官僚の日本への脅威が現実のものとなった意味は大きい。朝鮮は清にとって属国であり、それを狙うという日本への警戒も高まった。しかも当時、朝鮮ではすでにフランスとの間の武力紛争が起きていた上、米国船ジェネラル・シャーマン号への襲撃事件も発生し、朝鮮側はシャーマン号を英国船と誤認したまま、事件の概要を清国礼部に報告していた。在清米国公使館よりシャーマン号の行方不明について問合せを受けていた総理衙門は、朝鮮からの報告にある英船が実はシャーマン号なのではないかと疑い、朝鮮がフランスに加えて米英との紛争に巻き込まれることを恐れていた。そうした状況下、八戸の征韓記事が掲載されたのである。 総理衙門は、八戸の記事がもし事実であった場合、英仏米などよりも日本の方が清(および朝鮮)にとって重大な脅威になりうると判断した。というのも、日本の朝鮮出兵計画が英仏米など他国の動きに乗じたものかどうかは分からないが、もし日本が朝鮮を占領すれば、清と隣接することになり、フランスの侵略に比べても脅威はさらに高まるからである。総理衙門は、このように八戸記事を現実に起きうる脅威と受け止め、礼部を通じて朝鮮に密咨と5件の新聞情報(照録)を送り、実情を調査させることを上奏したのである。ただし清が八戸事件に関して、直接日本の徳川幕府に何らかの働きかけを行うことはなかった。当時、日本は清の朝貢国でもなく、新たな関係について交渉中の段階に過ぎず、表向き公的関係がなかったためである。 この事件で清朝政府が朝鮮に行った対応は、倭寇の記憶と日本の「自強」という認識を元に、朝鮮問題に限って言えば、英仏米などの列強よりも日本の脅威をより重視していたことを示している。本来、1861年に総理衙門という機関が設置されたきっかけとなった上奏文では、清にとって英仏米よりも領土的野心をもつロシアがより危険であるという対外観が表明されていたが、1870年代以降の海防・塞防論争においては、日本もロシアと同じく清国の主敵であるとの認識が高まる。この認識は江華島事件や琉球処分を通じてより広まっていくが、八戸事件こそがその端緒になったと言える。
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