消耗品(食料・燃料)について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 04:30 UTC 版)
「攻城戦」の記事における「消耗品(食料・燃料)について」の解説
詳細は「兵糧」を参照 日本において、凱旋と出陣時に、勝ち栗、打ちアワビ、昆布を(敵に打ち勝ち、よろこぶ)にかけて儀式と共に食べられた。 城の敷地内に、食料や燃料となる食物を育てる例が見られる。柿は干し柿にして保存された。栗は勝ち栗ともなり、保存も出来たことから保管された。松は燃料となり、非常食の松皮餅ともなった。梅は食料保存や傷の消毒ともなり奨励された。徳川家康は駿府城に食料となるようにミカンを植えた。 また、長期間の籠城戦に備え、熊本城では、庭に銀杏、畳に芋茎、壁に干瓢、堀に蓮根が備えられていた。他に食べられた食料として米は乾燥させ干飯や、味噌などがあげられ、さらに色んな食材を組み合わせた兵糧丸が作られた。 中世ヨーロッパ 出陣側:荷物を運ぶ牛(運んだあとに食料となる)、クラッカーや乾パン、塩漬け食料、その他の漬物、乾燥マメ、チーズ、ビール・ワイン。肉を食べない日もあったので、乾燥または塩漬けされた魚、特にタラの塩漬けであるバカラオは大航海時代も支える優秀な食料であった。他、酢、オリーブオイル、コショウ、サフラン、生姜。ロウソク。 中国 中国では、兵糧を干粮という。 漢王朝以前や中国北部では、米や小麦に比べて保存が効きやすい黍(キビ)が重宝され、塩・野菜の漬物・発酵漬けされた魚(英語版)・豆から作った調味料などが加えられた粥(小米粥)として供された。漢王朝以後は、種無しパンが食べられるようになり、そのままだと硬いため、茶やスープと共に食べられるようになった。 明になると、真ん中に穴が開いた乾パンを紐を通して持ち運び食べられた。これら乾パンは軍用のみ作られた。 唐・宋になると、焼餅・大餅・麻餅・黍餅・雑餅がたべられた。特に有名な物は「鍋盔餅」である。 中国南部では、粟を食べる習慣が無かったので、干飯が食べられた。 主食以外は悲惨で、味噌と漬物、豆を粉にしたものを茹で乾燥させ固めた物で、新鮮な肉や野菜が無かった。もし村から耕作用の牛を取ってきて食べようとした場合は死罪であった。そのため、肉を手に入れるには、敵や味方であった人間を調理する必要があった。 遠征前には豪勢な宴会が開かれ、牛酒がふるまわれた。 元(モンゴル)では、肉を乾燥させた乾燥肉を牛の膀胱に詰めたボルツが食べられた。これらの食料は栄養が豊富であったため兵站を無くし機動的な戦闘を行うのに重宝した。 近代 缶詰が発明されたあとも、様々な調理技術によってレーションが開発された。
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