海禁の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 16:43 UTC 版)
海禁政策は海防や華夷秩序の確立を目指した政治・国防を重視した政策であり、強権をもって新秩序を打ち立てる王朝建国期には一定の意義が存在した。元末明初の中国沿岸部は華夷混合のなか明朝支配が徹底されない混乱状態にあったが、海禁は沿岸部に新秩序を構築する一助を成し、民間貿易停止後は朝貢貿易を補完して冊封体制の構築や国内経済システムの補強に貢献した。清初においても海禁は鄭氏政権弱体化に一定の貢献を果たしている。しかし海禁は沿海地方の経済的発展を妨げまた税収を抑制する、経済・税収と相反する政策であった。そのため、新秩序が安定期に入ると海禁は反発を招き、社会的不安定化の要因となった。海禁を国是とした明朝においても、最終的には国家財政の困窮や後期倭寇という形の社会的圧力に屈し、海禁を緩和せざるを得なかった。 中国史学会では、中国が西洋に立ち遅れた原因は海禁に有ると考えられている。つまり、16世紀までの中国経済の発展は西洋に対しても大きな差がなかったが、国家間・地域間の相互刺激を通じて社会や経済の発展を促す貿易が海禁によって抑制されると中国の成長活力は減じられ、西洋に遅れを取ることになったとするものである。 一方で東南アジアや肥前の陶磁器産業のように海禁により成長が促進された事例も存在する。明朝の海禁によってアジア市場に中国陶磁器の供給が途絶えると、その穴を埋めるべくベトナム・カンボジア・タイでは輸出用陶磁器が盛んに製造されて技術や生産量が伸長し、東は日本から西はエジプト・トルコまで広く諸外国に輸出された。しかし東南アジアの陶磁器産業は中国製品の模倣の域を脱しきれず、海禁が弛緩すると衰退する。清代前期の海禁に乗じて成長を遂げた肥前陶磁器も海禁停止後に東南アジア市場から駆逐されるが、日本国内やヨーロッパ市場に活路を見出しその後も発展を続けた。 また朝貢貿易を認められた国家もしくは政権にとり、海禁は独占的な貿易を約束し政治面・財政面で恩恵を与えてくれるものであった。この恩恵を最も享受した国家は琉球王朝であった。民間貿易を禁じた明朝も硫黄や蘇木など自国に不足する物産の輸入を必要としており、また沿海部民衆の出海欲求をなだめるためにも貿易は欠かすことは出来なかった。そのため明朝は朝貢国の入朝を待つだけではなく、琉球王朝に優遇を与えて中国とアジア諸国との中継貿易を任せた。一般に朝貢国の貢期は3年もしくは5年であったが、琉球王朝は1年1貢と格段に有利な入朝を認められ、また貿易・外交に携わる在琉華人(閩人三十六姓)や大型海船を賜り、明朝の後援を背に日本や東南アジア諸国と盛んに貿易を行った。しかし海禁の弛緩とともにその貿易は衰退し、1609年の琉球征伐により島津氏の支配下に置かれた。 詳細は「琉球王朝」および「沖縄県の歴史」を参照 室町幕府にとっても日明勘合貿易は有力な収入源であり、また銅銭鋳造を行っていなかった幕府にとって、銅銭供給源である中国との独占的な貿易は貨幣鋳造権と類似の権限として機能した。室町末期に貿易権は大内氏等の有力大名から協力を引き出す政治的交渉材料ともなった。 明代における海禁は南洋華人の増加にも寄与している。宋元代の自由貿易時代にも海外に移住する中国人は存在したが、明代に海禁が敷かれるとそれに伴う罰則は出海者の帰国を阻む障壁となり、彼等に海外定住を強いるものとなった。こうして一度華人社会が形成されるとその縁故を頼りに後続の者を呼び寄せるものとなり、明代後期から清代にかけて東南アジアへ華人が大挙して進出することになる。 明代において海禁の直接の目的は倭寇の禁圧にあったが、実際には中国と諸外国との経済的連関を求める人々を倭寇へと追いやり逆に倭寇跳梁の原因となっていた。足利義持による日明勘合貿易の中断期間(1411年 – 1433年)には一旦沈静化していた前期倭寇が再び活性化して中国各地を襲撃しており、後期倭寇は貿易を求め出海した中国人の集団であった。また海禁によって日本・琉球・東南アジア間で中継貿易が活性化すると、そこに倭寇が介在する余地が生まれ倭寇が存続の条件を与えたとも指摘されている。
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