江島神社奥津宮周辺
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江島神社奥津宮 - 本宮または御旅所(おたびしょ)と称されていた。祭神 多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)。鳥居 - 文治元年(1185年)、源頼朝が寄進したと伝えられる。現在の鳥居は2004年(平成16年)台風で破損し、補修された。鳥居修復記念碑 - 文政6年(1823年)に台風で木が倒れ頼朝奉納の鳥居が破損したのを文政10年(1827年)に修復したときの記念碑。 手水舎 - 東京材木問屋熊野屋安兵衛の奉納。鋳銅の亀は1979年(昭和54年)東京在住の青山建作氏が参拝30周年を記念して再復奉納したもの。 拝殿 - 1976年(昭和51年)に改築。天井に八方睨みの亀の絵が掲げられている。八方睨みの亀の絵 - 享和3年(1803年)画家・酒井抱一が描いた「正面向亀図」。傷みが激しいため抱一筆の原画(藤沢市指定文化財)は改築時に辺津宮奉安殿に収蔵されている。代わりに1926年(大正15年)4月、東大資料編纂室長の浦永峯光氏が酒井抱一の末流野沢堤翠に摸写を依頼したものが掲げられていた。現在掲げられているのは1994年(平成6年)片岡華陽筆になる復元画である。 本殿 - かつては壮麗を極めていたが、天保12年(1841年)火災で焼失し、翌年造営したものが現社殿という。1979年(昭和54年)に屋根を葺き替えた。 亀石 - 玄武岩の柱状節理断面が磨かれて亀甲紋が現れたもの。江の島では産出しない石材(地質・地形参照)。 力石 - 江戸時代に日本一の力持ちと言われた卯之助(岩槻藩)が奉納したもの。重さ80貫(320キロ)で、石には「奉納岩槻卯之助持之八拾貫」と刻まれている。 山田検校顕彰碑と座像 - 箏曲「江の島曲」の作曲者である山田流琴曲の開祖・山田検校を顕彰し、1917年(大正6年)4月10日の検校100年忌に幸田露伴らによって建てられた。座像は戦時中に供出されたが、近年当時の鋳型が発見されたことから、山田流箏曲協会が残された土台上に再建し、2004年(平成16年)4月10日除幕された。 龍宮大神(わだつみのみや) - 1994年(平成6年)篤志家により新しく祀られた。岩窟の入口に巨大な龍の像が睨みを利かせる。 龍野ヶ丘自然の森(恋人の丘) - かつては島内でも珍しいまとまった草原が見られた。分校の運動会にも使われたという。龍恋の鐘 - 1996年(平成8年)江嶋縁起の伝説「天女と五頭竜」にちなんで藤沢市が観光協会設立を記念して鐘を設置。「恋人の丘」の地名もこの時つけられたようだ。周りにある柵に南京錠を下げる風習が間もなく始まった。 奥の院の鳥居 - 嘉永4年(1851年)に造られ、1915年(大正4年)に修理された。 岩屋道道標 - 文政2年(1819年)に江戸・芝の講中の手で建てられた。 高木蒼悟句碑 - 高木蒼悟は江島神社の宮司で、俳諧の研究者。著書の『俳諧人名辞典』で文部大臣賞を受賞したことを記念して、当時の江島神社宮司相原直八郎が1961年(昭和36年)に建立。 龍燈の松 - 稚児ヶ淵に下る坂道の途中にあった名松。江戸時代の観光スポットの一つであった。いつ消滅したかは不詳。その根元と思しき場所に6基の石碑が並べられている。八雲庵碑 - 「遊江嶋」と題する漢詩。 松尾芭蕉句碑 - 「疑ふ那潮能花も浦乃春」。これは江の島で詠んだ句ではない。 佐羽淡齋詩文碑 - 佐羽淡齋は上野国桐生の豪商で文人。大窪詩佛題及碑陰。東京玉淵加藤豊書、文政5年(1822年)。 服部南郭詩碑 - 儒学者で漢詩人の服部南郭の碑。南郭没後の文化2年(1805年)に同志らが建立。 龍燈松碑 - 文化6年(1809年)に江戸・深川新地の遊郭五明楼の主人喜兵衛が建てたもの。
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