段龕を征伐
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段部の首領段龕はかつて冉閔の乱が起こった際、その混乱に乗じて本拠地の令支から兵を率いて南下を開始し、さらに東に進んで広固に拠点を構えると、その勢力を大きく広げていた。また、自ら斉王を名乗り、東晋に称藩を申し入れ、朝廷より鎮北将軍に任じられていた。 彼は前燕との対立姿勢を鮮明にしており、時期は不明だが前燕領の郎山を襲撃して将軍栄国を破っている。 前燕の楽陵郡太守慕容鉤(慕容翰の子)は青州刺史朱禿と共に厭次を治めていたが、彼は自らが宗室である事に驕り、いつも朱禿の事を辱めていた。その為、354年7月には朱禿は慕容鉤を襲撃して殺害すると、南へ奔って段龕に寝返ってしまった。 355年10月、段龕は慕容儁へ書簡を送り、中表の儀(東晋建国時に誓った忠誠)に背いて皇帝に即位した事を強く非難した。慕容儁はこの書を見ると甚だ激怒し、討伐を決断した。 11月、慕容儁は太原王慕容恪を征討大都督・撫軍将軍に任じて段龕討伐を命じ、陽騖・慕容塵も副将として従軍させた。その一方で、彼は段龕の勢力が強盛である事を憂慮していたので、出発に際して慕容恪へ「もし段龕が対岸に軍を並べて拒んでおり、渡河する事が出来なかったならば、代わりに呂護(呂護は形式上は前燕に降伏して忠誠を誓っていたが、実質的には野王で自立していた)を攻めてから還るのだ」と忠告した。 12月、慕容恪はまず軍を分けて軽騎兵のみを先に黄河北岸へ到達させると、段龕の動向を伺いながら船を用意して渡河の準備を進めた。段龕は兵を出さずに慕容恪を待ち構えたので、妨害を受ける事は無かった。 同月、高句麗の故国原王は前燕へ使者を派遣して方物を貢ぎ、かつて慕容皝の時代に敗れた際に捕らわれていた母の周夫人の返還を請うた。慕容儁はこれを認め、殿中将軍刁龕を派遣して周夫人を祖国に帰らせてやった。故国原王は再び使者を派遣して貢物を送り、母を送り届けてくれた事に謝意を示すと、慕容儁は彼を都督営州諸軍事・征東大将軍・営州刺史に任じ、楽浪公に封じ、高句麗王の称号についても認めた。 同月、上党郡出身の馮鴦は前燕の統治を拒んで上党郡太守段剛を追放すると、安民城において自立して上党郡太守を自称し、東晋に称藩の使者を送った。 356年1月、慕容恪が渡河を果たして広固から200里余りの所まで進撃すると、段龕は兵3万を率いてこれを迎え撃った。両軍は淄水の南で交戦となったが、慕容恪はこれを大破して弟の段欽を捕らえ、右長史袁範・辟閭蔚らを討ち取り、数千人の士卒を降伏させた。段龕は広固に逃げ戻って城を固守したので、慕容恪はそのまま軍を進めて城を包囲した。 2月、慕容恪は深い塹壕を掘ると共に土塁を堅固に仕立て、さらに畑を耕して長期戦の構えを取った。また、段龕の傘下にあった諸城に降伏を促すと、段龕配下の徐州刺史王騰・索頭部の単于薛雲らは衆を挙げて来降した。慕容恪は王騰に今まで通りの職務を委ねて陽都を鎮守させた。青州の民は段龕の敗亡を悟り、先を争って前燕軍へ食糧を供給した。 同月、慕容儁は将軍慕輿長卿らに兵7千を与えて軹関より関中へ入らせ、前秦へ侵攻させた。前秦の幽州刺史強哲は裴氏堡においてこれを阻み、さらに前秦君主苻生は建節将軍鄧羌を救援に派遣した。慕輿長卿は裴氏堡の南で鄧羌と交戦するも、大敗を喫して戦死し、この戦いで2千余りの兵が討ち取られた。 5月、慕容儁は尚書左丞鞠殷を東萊郡太守に、章武郡太守鮮于亮を斉郡太守に任じた。 7月、皇太子慕容曄が早世した。献懐太子と諡した。 8月、段龕は一族の段蘊を東晋に派遣して救援を要請すると、穆帝はこれに応じて北中郎将・徐州刺史荀羨を救援に派遣した。だが、荀羨は前燕軍の強勢に恐れをなし、琅邪に至った所で進軍を止めた。この時、王騰が鄄城へ侵攻しており、荀羨はその隙を突いて陽都を攻めると、長雨に乗じてこれを攻略した。王騰もまたこれに敗れて戦死した。 慕容恪は城の周囲の木々を伐採し、さらに糧道を断ったので、広固城内では飢餓により共食いが発生する有様であった。追い詰められた段龕は総力を挙げて城から打って出たが、慕容恪は敢えて陣営の中に引き入れてからこれを返り討ちにした。段龕は退却を図ったが、慕容恪は予め兵を分けて諸々の門に配置しており、退却しようとする段龕軍を散々に打ち破った。段龕自身はかろうじて単騎で城内に逃げ戻ったが、取り残された兵は全滅し、これにより城中の士気は激減した。 11月、段龕は遂に降伏を決断し、面縛して陣営へ出頭した。こうして斉の地は尽く平定され、慕容恪は段龕を朱禿と共に薊に送還すると共に、斉の地に住まう鮮卑や羯族3千戸余りを薊に移住させ、残りの民については慰撫してこれまで通りの生活を約束した。慕容儁は朱禿を裏切った罪で五刑に処したが、段龕については罪を許して伏順将軍に任じた。慕容恪は慕容塵に広固の鎮守を任せると、軍を返して帰還した。 荀羨は段龕の敗北を知ると下邳に撤退し、泰山郡太守諸葛攸・高平郡太守劉荘に3千人を与えて琅邪の守備を任せ、さらに参軍戴逯らに2千人を与えて泰山を守らせた。また、汴城を守備していた前燕の将軍慕容蘭を攻撃し、これを討ち取ってから撤退した。 12月、慕容儁は代へ使者を派遣して婚姻関係を結ぶ事を提案し、代もまたこれに同意した。
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