段龕を征伐とは? わかりやすく解説

段龕を征伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 22:40 UTC 版)

慕容儁」の記事における「段龕を征伐」の解説

段部首領段龕はかつて冉閔の乱が起こった際、その混乱乗じて本拠地令支から兵を率いて南下開始し、さらに東に進んで広固拠点構えると、その勢力大きく広げていた。また、自ら斉王名乗り東晋に称藩を申し入れ朝廷より鎮北将軍任じられていた。 彼は前燕との対立姿勢鮮明にしており、時期不明だ前燕領の郎山を襲撃し将軍栄国を破っている。 前燕楽陵郡太守慕容鉤(慕容翰の子)は青州刺史禿と共に厭次治めていたが、彼は自らが宗室である事に驕り、いつも禿の事を辱めていた。その為、354年7月には禿は慕容鉤を襲撃し殺害すると、南へ奔って段龕寝返ってしまった。 355年10月段龕慕容儁書簡送り中表の儀(東晋建国時に誓った忠誠)に背いて皇帝即位した事を強く非難した慕容儁はこの書を見ると甚だ激怒し討伐決断した11月慕容儁太原王慕容恪征討大都督・撫軍将軍任じて段龕討伐命じ陽騖慕容塵副将として従軍させた。その一方で、彼は段龕勢力強盛である事を憂慮していたので、出発に際して慕容恪へ「もし段龕対岸に軍を並べて拒んでおり、渡河する事が出来なかったならば、代わりに呂護呂護形式上前燕降伏して忠誠誓っていたが、実質的に野王自立していた)を攻めてから還るのだ」と忠告した12月慕容恪はまず軍を分けて軽騎兵のみを先に黄河北岸到達させると、段龕動向伺いながら船を用意して渡河準備進めた段龕は兵を出さず慕容恪待ち構えたので、妨害を受ける事は無かった同月高句麗故国原王前燕使者派遣して方物を貢ぎ、かつて慕容皝の時代敗れた際に捕らわれていた母の周夫人返還請うた。慕容儁はこれを認め殿中将軍刁龕を派遣して夫人祖国に帰らせてやった。故国原王は再び使者派遣して貢物送り、母を送り届けてくれた事に謝意を示すと、慕容儁は彼を都督営州諸軍事・征東大将軍営州刺史任じ楽浪公に封じ高句麗王称号について認めた同月上党郡出身の馮前燕統治拒んで上党郡太守段剛追放すると、安民城において自立して上党郡太守自称し東晋に称藩の使者送った356年1月慕容恪渡河果たし広固から200里余りの所まで進撃すると、段龕は兵3率いてこれを迎え撃った両軍は淄水の南で交戦となったが、慕容恪はこれを大破して弟の段欽を捕らえ、右長史袁範・辟閭蔚らを討ち取り数千人の士卒降伏させた。段龕広固逃げ戻って城を固守したので、慕容恪そのまま軍を進めて城を包囲した2月慕容恪は深い塹壕を掘ると共に土塁堅固に仕立て、さらに畑を耕して長期戦構え取ったまた、段龕傘下にあった諸城降伏促すと、段龕配下徐州刺史王騰・索頭部単于らは衆を挙げて来降した。慕容恪王騰今まで通り職務委ねて陽都鎮守させた。青州の民は段龕敗亡悟り先を争って前燕軍へ食糧供給した同月慕容儁将軍慕輿長卿らに兵7千を与えて軹関より関中へ入らせ、前秦侵攻させた。前秦幽州刺史強哲は裴氏堡においてこれを阻み、さらに前秦君主苻生は建節将軍鄧羌救援派遣した慕輿長卿裴氏堡の南で鄧羌交戦するも、大敗喫して戦死し、この戦いで2千余りの兵が討ち取られた。 5月慕容儁尚書左丞鞠殷東萊郡太守に、章武郡太守鮮于亮斉郡太守任じた7月皇太子慕容曄早世した。献懐太子と諡した。 8月段龕一族の段蘊を東晋派遣して救援要請すると、穆帝はこれに応じて北中郎将・徐州刺史荀羨救援派遣した。だが、荀羨前燕軍の強勢に恐れをなし、琅邪至った所で進軍止めた。この時、王騰鄄城侵攻しており、荀羨はその隙を突いて陽都攻めると、長雨乗じてこれを攻略した王騰もまたこれに敗れて戦死した慕容恪は城の周囲木々伐採し、さらに糧道断ったので、広固城内では飢餓により共食い発生する有様であった追い詰められ段龕総力挙げて城から打って出たが、慕容恪敢えて陣営中に引き入れてからこれ返り討ちにした。段龕退却図ったが、慕容恪は予め兵を分けて諸々の門に配置しており、退却しようとする段龕軍を散々に打ち破った段龕自身はかろうじて単騎城内逃げ戻ったが、取り残された兵は全滅し、これにより城中士気激減した11月段龕遂に降伏決断し面縛して陣営出頭した。こうして斉の地は尽く平定され、慕容恪段龕禿と共に送還すると共に、斉の地に住まう鮮卑羯族3千戸余り移住させ、残りの民については慰撫してこれまで通りの生活を約束した慕容儁禿を裏切った罪で五刑処したが、段龕については罪を許して伏順将軍任じた慕容恪慕容塵広固鎮守任せると、軍を返して帰還した荀羨段龕敗北を知ると下邳撤退し泰山郡太守諸葛攸・高平郡太守劉荘に3千人与えて琅邪守備任せ、さらに参軍戴逯らに2千人与えて泰山を守らせた。また、汴城を守備していた前燕将軍慕容攻撃し、これを討ち取ってから撤退した12月慕容儁は代へ使者派遣して婚姻関係を結ぶ事を提案し、代もまたこれに同意した

※この「段龕を征伐」の解説は、「慕容儁」の解説の一部です。
「段龕を征伐」を含む「慕容儁」の記事については、「慕容儁」の概要を参照ください。

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