歴史と呼称
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履物の下駄の起源は田下駄であるとする説がある。田などで使用されたと考えられるこのような道具は、紀元前3,000年前の中国浙江省寧波市の慈湖遺跡からも出土している(ただし慈湖遺跡の出土品は歯のない板状のもの)。足の保護や水田・湿地での沈み込みを防ぐため使われたとみられる道具は、日本では弥生時代の登呂遺跡(静岡県)からも出土しており、同様の履物は20世紀まで使われ続けた地域がある。 農具ではない履物としての下駄は5世紀の桓武山ノ花遺跡(静岡県浜松市)や鴨田遺跡(滋賀県長浜市)から出土しているが、鼻緒の素材にどのようなものを使っていたかは不明である。 室町時代から江戸時代にかけて支配者層を中心に下駄が使われるようになったが、庶民一般の履物となったのは江戸時代後半で地域も江戸や大坂などに限られていた。 かつては普段着の洋装に下駄を履く場合もあり、男子学生がファッションとして崩れた洋服(学生服)などに下駄を履いていることをバンカラと呼んだ。 日本で下駄が最も普及していたのは機械化による大量生産が進んだ昭和30年代頃とされている。1940年代からゴム製の履き物が登場し売り上げが落ち始め、戦後のアメリカナイゼーションやモータリゼーション等で廃れたが、1960年代までは洋服に下駄履きで遊ぶ男児は珍しくなかった。 呼び名の成立は戦国時代と推測される。それ以前は「足下(あしした)」を意味する「アシダ」と呼称され、漢字は「足駄」など様々な字があてられていた。「アシダ」は上履き・下履きを問わなかったが、これを下履きに限定した語が「下駄」である(「駄」はアシダの略)。 海外では、木版を使う下駄にあたる履物が古代エジプトや中東アジア・一部ヨーロッパでも使用されていた。東南アジア・東アジアでは、稲作を行う南方地域で広く使用されており、鼻緒のある下駄は日本や中国南部の一部少数民族、東南アジアで使用されてきた。田下駄のように大きめの板に通した紐に、足を引っ掛けて履いたもので、後に発達する「下駄」のルーツと同様の系譜と考えられている。中国北部や朝鮮半島では下駄の使用が元々一般的でなく現在は使用されていない。
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歴史と呼称
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 08:51 UTC 版)
フルン湖周辺には先史時代より人類が居住してきた。中国の記録にもフルン湖は記されている。『山海経』では「大澤」という名で記載され、唐代には「倫泊」、遼代および金代には「栲栳濼」、元代には「闊連海子」、明代には「闊灤海子」、清代には「庫楞湖」と書かれてきた。 『元朝秘史』では「コレン湖(コレン・ナウル)」闊連納浯児 Kölen〜Külün Na'ur と呼ばれ、また本文中に「ブユル(ブイル)湖とコレン湖」とあり、流入するウルソン川を遡って南に隣接するブイル湖とともに並記されている。また両湖を繋ぐウルソン(ウルシウン)川にはタタル部族の一派であるアイリウト、ブイリウトと呼ばれる氏族が本拠地としていたことが述べられており、チンギス・カンによるモンゴル高原統一以前のフルンボイル地方はおおよそタタル部族の本拠地だったことが伺われる。モンゴル高原統一後、チンギス・カンは領土を諸弟・諸子を右翼・左翼に別けておのおのウルスを領土として分封しているが、フルンボイル地方を中心とする大興安嶺西麓は東方三王家と通称されるジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンら左翼を担うチンギス・カンの弟たちに分与された。1221年4月に、チンギス・カンの招聘に応じた全真教の長老・丘処機が、フルン湖近くに幕営していたテムゲ・オッチギンのもとを訪れ歓待を受けており、テムゲ・オッチギン家の所領はこのフルンボイル地方一帯であったと現在有力視されている。 現地のモンゴル族は「ダライ・ノール(達頼諾爾)」(海のような湖)と呼んできた。フルン・ノール(呼倫湖)は比較的新しい名称で、「フルン」はモンゴル語でカワウソを指す。近くにあるボイル・ノール(貝爾湖)の「ボイル」は「オスのカワウソ」を意味し、両方ともカワウソが多く棲んでいたことからきている。
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