歴史と哲学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 23:09 UTC 版)
「科学史」も参照 「科学的な方法とは何か」という問題について、これまでは科学者の側あるいはそれに近い側からの議論を中心に述べてきたが、この問題は科学哲学の重要な問題の一つでもある。但し、反証可能性、オッカムの剃刀などに関する諸議論は、科学者にとっての必須教養ではない。研究開発の現場と乖離している場合もある。哲学として一定の権威を有していても、極端にそれら考えを掘り下げると全くの出鱈目に近い議論が成立することもあるので注意を要する。 科学的な方法を身に付ける上では、特に初学のうちは下手に手を出さないほうがよい事柄も多く含まれ、研究者として未熟な段階でこの手の議論にとりつかれてしまったがために、この手の話題だけには強くなり、インターネット上で教弁をふるってはいるが、研究業績はさっぱりという「研究者」もいる。 特に、哲学と自然科学が分業して以降は科学哲学の側がどうしても観念的になり、また、科学を中途半端に理解した議論が野放図に行われる状況である。具体的には、「相対論の実証により、古典力学の正しさは否定された」とか、「土星模型は、電子運の発見で意味をなくした(土星模型で説明のつく問題は土星模型を用いればよく、量子論でも、ハミルトニアンは、クーロンポテンシャルを用いて立てることが多い。)」などといった短絡的で次元が低い理解に基づき、論理の飛躍を繰り返す傾向などがある。また、宗教、オカルトといった、まったく思考様式の異なる問題と科学との線引きといった、科学者にとっては直接的には意味のない問題を延々と扱う傾向がある。 また、古典的な科学哲学者の見解には科学の進展の美化された部分を高度に抽象化させすぎるきらいがあることが指摘されている。結果として道徳の次元としては美談だが、現実の科学の進展に寄与したい人間にとっては逆に変な誤解や萎縮効果を与えてしまう危険性のある理屈がまかり通り、神話を作るだけで結果として科学者の側にとってはどうでもよい問題を延々と議論しているという指摘がしばしなされる。 不幸なことにこのような古典的な科学哲学の問題点は「いまでもそのまま」だと誤解されているようであるが、これはとんでもない間違いである。現在の科学史、科学哲学においては既に実験ノートの記録などから科学的に研究者に迫るアプローチが主流であり、従来の観念的な科学論は科学哲学の中でも重要性を失っている。 観念的な大昔の科学史、科学哲学によって形成された神話的な科学者像は正確には実用性に欠く見当違いな「科学的方法」観を与える。先述のように、科学的な方法においては、最終的にはデータに文脈性を持たせることが重要になるが、データに文脈性を持たせる能力について「単なる弁明の能力でしかなく、科学を進める原動力にはならない」と言う人もいる。そして、「口がうまい者が一流とみなされる」と嘆いて見せる。しかし最近の科学史の研究においては、「パスツール」だとか「ファラデー」とかいった比較的神格化されている人たちも含め、どちらかというと「口がうまい」と嘆かれる研究者に近くそういう特質をもっていたからこそ科学を進歩させられたのだとみる見方が主流となっている。
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