横浜マリノス時代
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1997年、横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)に加入する。マリノスにおいて最初の2シーズンの背番号は25番だった。1997年シーズンのJリーグ優秀新人賞を受賞した。 1999年のシーズンから、10番に背番号を変更した。またこのシーズンにはJリーグベストイレブンを初受賞する。 2000年のシーズンは、22歳でJリーグ最優秀選手賞、日本年間最優秀選手賞を受賞した。Jリーグ最優秀選手賞受賞者の中では最年少である。
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横浜マリノス時代
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1995年、当時のホルヘ・ソラーリ監督に「君は将来井原正巳を追い越す才能を持っている」と評価され、3月28日、Jリーグ開幕戦からスタメンに抜擢される。同年9月30日、名古屋グランパスエイト戦でプロ初ゴールを決めた。ワールドユース出場後に戻ってくると、クラブの急激な世代交代の内乱に飲み込まれサブに回るようになる。ソラーリ退任後、早野宏史監督体制になってからはレギュラーを外されるようになったが、ステージ最終節に先発に抜擢され、マリノスのステージ優勝に貢献した。当時はまだ背番号が固定制ではなかったため、DFながら「10番」を付けて試合に出場した事がある。この事に対して横浜マリノス(日産)で長らく「10番」を背負ってきた『元祖ミスターマリノス』こと木村和司は、「マリノスの10番も軽くなったもんだ」に発言している が、あくまでも松田がまだチームを背負うような立場でない新人で、なおかつ「10番」のイメージには似合わないDFであることに冗談めかして触れたものである。 1997年に右膝半月板損傷、1998年に初手術を受けた。復帰後は再びレギュラーに定着し、1999年、高校時代からの背番号「14」から、井原の背番号「4」のひとつ前の「3」を付けるようになる。 2000年、Jリーグベストイレブンを初受賞。 2002年、2002 FIFAワールドカップ日本代表に選出。大会ベスト16入りに貢献。群馬県桐生市より個人では初の市民栄誉賞が贈られた。また、クラブでは2度目のJリーグベストイレブンを受賞した。その後行われた契約交渉ではクラブ側との意見の食い違いを見せ、当時の社長である左伴繁雄との直接会談を要求した。5時間にわたった直接会談で和解し契約を更新、「永久にマリノスだよ」という言葉を残した。 2003年、2004年、チームキャプテンに就任し、2年連続でJリーグ連覇、2005年にJリーグ通算250試合出場を達成する。 2006年にはチームキャプテンに再び就任。2007年、オフに骨片が右膝十字靭帯を圧迫し、手術。その後、守備的MFとしてヤマザキナビスコカップ・大宮アルディージャ戦で復帰した。この年、再び監督に就任した早野宏史からレギュラーを外されていたが、第16節のガンバ大阪戦でセンターバックとして先発し、39試合連続得点中のG大阪を無失点に抑えた。その後、第18節大分トリニータ戦で、リーグ戦300試合出場を達成。2006年には複数年契約拒否、2007年には約60%の減俸となったが、マリノスへの愛・サポーターからの愛情を大事にしたい一心で契約更新をする。 2008年、桑原隆監督の就任後、河合竜二の負傷により、DFから守備的MFに抜擢される。最終ラインを守るチームメイトからは「DFの前にDFがいる」と頼りにされた。6月下旬、小椋祥平に触発され、04年以来となる坊主頭(五厘刈り)を披露。それがチーム内に連鎖し、田中裕介、小宮山尊信ら選手だけではなくチームスタッフや記者まで頭を丸めた。 2008年から2010年まではF・マリノスの選手会長を務めた。2009年、守備的MFとしてもプレーする機会が多く、プレースタイルの幅を広げた。シーズンオフの契約更新では“引退までマリノスでプレーしたい”とコメントしていた。 この年、自叙伝『闘争人』を出版。 2010年、慢性的なケガを抱えていた右膝半月板の4度目の手術を行った影響で出遅れ、13節広島戦で後半開始から交代でプレーしたのがシーズン初出場となった。 初先発となった17節のベガルタ仙台戦でゴールを決め、その後はイエローカードの累積による出場停止となった24節仙台戦以外は、最終節34節まで全試合にほぼ先発で起用された。1995年から16年にわたってマリノス一筋でプレーし、マリノスが獲得したすべてのタイトルを経験しミスターマリノス と呼ばれるようになっていた松田だが、2010年11月27日のG大阪戦後、マリノスから戦力外通告を受けた。12月4日大宮アルディージャ戦後の退団セレモニーにて「マジでサッカー好きなんすよ。マジでもっとサッカーやりたい。本当にサッカーって最高な所を見せたいのでこれからも続けさせてください。」という言葉を残し、横浜Fマリノスを退団した。
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