植林の研究と成功
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1797年(寛政9年)の秋に定之丞は山本郡の林取立役に任命され、更に郡方御物書と砂留方を兼任されられる。当時の山本郡の林取立役は4人いて、その4人で植林砂防をすることになったが年ごとに莫大な金額と人員を使ってもその甲斐がなく、いくら植林しても砂に埋没するありさまだった。翌1798年(寛政10年)にはその役は一人で引き受けることになった。役頭の大森六郎右衛門に相談すると、大口村の兵右衛門、浅内村の五右衛門、水沢村の庄藏は以前から砂留方に励み褒賞をもらった人物だから、彼らに相談すると良いと言われる。定之丞は三人を呼び銀若干を与え話を聞いた。更に、9月末から10月始めまで八森村から芦崎村まで一村につき一・二夜滞留して巡回した。以前の植林が成功した場所は全体の百分の一に過ぎなかったが、珍しく成功した場所の植林時期と植林法を村人に尋ねた。三人は口をそろえて「砂留めは普通の忍耐ではとうてい出来ることではない。たとえば一ヶ所50間の所に20年余りも継続しないとだめだし、植え付けに成功しても春秋の二回は人を出して念入りに手入れをしなければならない。毎年の手入れが継続しないと、すぐハゲ山に変わってしまう」と、植林にはかなりの年月と金額、人員を必要とするとの証言をした。 そこで定之丞はとにかく協力者を求め、各村の肝煎を集めて人足を募集した。しかも財政逼迫の折だから日雇銭を出せないが、成功したなら生活が楽になると説得した。今までは工賃を貰えたのに、それが覆されたのだから不平から定之丞に対する憎悪となった。定之丞自身も休息を取らずに、わざわざ大風雪の日を幸いとして、工事をして高みから苗を観測した。大内田村の神官である清水直宣の栽松止砂風記には「初めは定之丞が仕事をさせるのは農閑期だった。そのため苗を植える季節は初冬で、人足を率いて海風の中を往来していた。皆は仕事は達成できないものだと思い、定之丞を笑う者や、恨む者がいて仕事の引き継ぎ時に罵声を定之丞に浴びせる。しかし定之丞はそれを意に介さなかった」とある。この時、定之丞が丹下氏に出した手紙には戦場にただ一人出て敵と差し違える決意で業務に向かうことが、後生の手本になると彼の気持ちを語っていた。 このとき、清水直宣の栽松止砂風記では「定之丞が地方を巡回する際に、一面の砂浜に一点の青いものが見えた。近寄って見れば破れた草鞋の陰に草が生えているものであった。定之丞はそこで、藁を束ねて砂の上にさし、風の陰にヤナギを植林して、根付いたなら土で根を包んでアキグミを植え、これも根付いたならその陰に初めて松を植えることで初めて松を生長させることができた」としている。この記述は栗田家の伝承と一致する。 工事は南部の浜田村から始まり、1798年(寛政10年)から1804年(文化元年)の工事で砂山は草地が多くなり、松苗が点々として砂が飛ぶことが少なくなった。長百姓の大山惣四郎はそれまで定之丞を大いに罵倒して「次の春に松苗が生えていれば、首をやる」と言っていた。しかし、翌年松苗が生えていたので改心して夜を徹して定之丞の官宅に泊まり込みで仕事をし、袴田與五郎に書簡を書いてもらいひたすら謝って、無罪放免となった。 浅内村では植林の結果新田開発が可能になった。1794年(寛政6年)では新田開墾が22石だったのが、1802年(享和2年)で73石になり、1805年(文化2年)では105石余となった。これは浅内村の枝郷の黒岡村での堤の完成によるもので、浅内沼の下流の通称ヨブ谷地と言われる難所での堤の完成も、植林による砂留の効果であると考えられる。また、1808年(文化5年)と1809年(文化6年)の凶作の時には、食糧不足が発生したが、農民は砂留山の雪の中から草の根を取り食料とし、また薪を松林から取って焚き物にすることができた。 定之丞はこの成果により佐竹義和から1805年(文化2年)10月15日、20石を加増された。 定之丞が植えた松は能代市内に古木として一部が残るほか、沿岸の防砂林は人々によって植林が続けられ風の松原と呼ばれる広大な林になっている。
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