日本鋼管諏訪鉱業所
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「北山村 (長野県)」の記事における「日本鋼管諏訪鉱業所」の解説
浅野財閥傘下の日本鋼管株式会社(現・JFEエンジニアリング)は日中戦争勃発の1937年、北山村湖東村一部事務組合が管理する外山財産区内の土地を買収して日本鋼管諏訪鉱業所とし、関東運輸株式会社(旧・浅野同族株式会社回漕部)が下請けとして露天掘りによる鉄鉱石の採掘を開始した。1944年には日本鋼管傘下の鉱業関係会社と直営鉱業所を統合して設立された日本鋼管鉱業株式会社に移管され日本鋼管鉱業諏訪鉱業所となった。 鉱区は石遊場鉱床、明治鉱床、糸萱(いとかや)鉱床(長尾根鉱区・金堀場=かねほりば=鉱区・中山1〜3鉱区)のいずれも露天掘りの3鉱区。産出する鉄鉱石はリンを含む低品位(鉄含有率45%未満)の褐鉄鉱で、石遊場に鉱物中の酸化鉄を還元する簡易焼結炉20基を設け、鉄含有率を45%以上に引き上げた上で京浜地区へ送鉱した。 コンクリート製600t貯鉱槽2基を石遊場に、また同2000t貯鉱槽1基を芹ヶ沢神社(芹ヶ沢子之社)と湖東村花蒔区の間にある芹ヶ沢区花蒔下(下島)地籍の渋川南岸段丘崖に設け、明治鉱床─石遊場 (2.9 km)・石遊場─花蒔 (4.6 km) に鉱石輸送用のバケットを設けた索道を設置。1942年には明治鉱床─石遊場間を3線に、石遊場─花蒔間を2線に増強した。花蒔までの鉱石搬出は約40分を要した。花蒔貯鉱場からは茅野駅までトラックで輸送し、1943年には鉄道省茅野自動車区の貨物自動車路線(国鉄北山線)が開設された。 さらにトラックの輸送力が追いつかなくなったことから1943年12月、軍需省は当時鉱業所を運営していた日本鋼管に鉱石輸送用の特殊専用側線(通称・諏訪鉄山鉄道)を敷設させることを決めた。花蒔貯鉱場から上川沿いに米沢村、永明村を経て茅野駅に達する約10kmの路線は運輸通信省が建設を受託施工し、鉱業所が日本鋼管鉱業に移管された後の1944年末に開通。国鉄上諏訪機関区のC12形蒸気機関車が乗り入れて輸送を始めた。 しかし中央本線の輸送力が元から貧弱であったことと、戦局の悪化で既に国内の鉄道貨物輸送が混乱に陥り貨車の手配と確保が困難であったことから、京浜地区への送鉱は計画どおりに進まなかった。さらに翌1945年春からは地方都市への空襲も激化したため、首都圏の精錬工場への鉱石輸送は麻痺状態に陥った。軍部は本土決戦における製鉄拠点として非常措置の対象とし、「諏訪地方決戦製鉄設備急設要項」を策定。山梨県の日本電化工業日下部工場に送鉱して鉄鉱および化学肥料の生産を行う現地製鉄作業案を内示したが、まもなく終戦を迎え、諏訪鉱業所の採鉱作業は終了した。 1944年8月現在の鉱山労働者は1,639人で、内訳は鉱山作業員が鉱員328人、徴用工221人、臨時工69人。建設作業員が鉱員339人、徴用工682人。徴用工は諏訪郡内で兵役に服していなかった壮年男性約700人と、朝鮮半島の朝鮮人青壮年約200人で、ともに石遊場近くの緑山温泉に収容され採鉱作業に従事した。また立命館大学学生20人、諏訪中学校4年生100人が勤労奉仕隊員として小斉の湯に収容され、中学生は二交代制で石遊場での焼結作業に従事したほか、横浜に収容されていた連合国軍(アメリカ・イギリス・オランダ)捕虜約250人が長尾根近くの収容所に移送され採鉱作業に従事していた。 終戦後、9月10日に連合国軍兵士は横浜に、朝鮮人徴用工は博多にそれぞれ引き揚げ、1947年には鉄道施設が全面撤去された。 日本鋼管は1949年1月、鉄道用地を沿線の地元町村に無償譲渡した。北山、米沢、湖東、豊平の4村は、長野県が戦後策定した「八ヶ岳総合開発計画」に基づく交通機関整備の一環として、鉄道跡地を「北山鉄道」として復活させようと同月から運輸省、農林省、長野県などに陳情を繰り返したものの実現せず、用地は1951年1月に北山、米沢、ちのの各町村道に認可され一般道路となった。
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