蓼科高原の別荘開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 06:07 UTC 版)
「北山村 (長野県)」の記事における「蓼科高原の別荘開発」の解説
1923年8月、上諏訪町高島小学校の校医小沢侃二らは、親湯で虚弱児童の高山保養訓練を行って良好な結果を収め、1924年には「上諏訪児童愛護会」を組織して小斉の湯で保養訓練を行ってその実績が国や医学界に注目された。文部省は1928年に小斉の湯を中心とする蓼科高原一帯を高山保養地に指定し、東京高等師範学校附属中学校など東京の各校の寮が建設されたほか、東京各地の夏季林間学校が開かれるようなった。 昭和初期にかけて、湯川財産区は「栂(つが)の木平」と呼ばれていた滝の湯近くの下栂の木地籍に、財産区直営の「高原ホテル」と温泉プール付き旅館「美遊喜館(みゆきかん)」を建設し、付近の地名を「プール平」と名付けた。さらに農村恐慌を受け、湯川財産区は1930年に別荘地経営を開始。同年5月に蓼科高原初の別荘が建設されたのを皮切りに、プール平周辺に次々と別荘が誕生した。湯川財産区有地における高原地帯の戸数は、太平洋戦争勃発直前の1941年には288戸にまで急増。これとは別に財産区との別荘建設の用地借受契約も186戸分に達した。同年の避暑・保養観光客の入り込み客数は約3万人に達し、近代型の保養観光地として、戦後の観光開発の基礎となった。 蓼科高原の観光産業は戦時体制化で衰退し、茅野駅と蓼科方面を結ぶバス路線は1943年10月に運休。1944年4月には小斉の湯が日本鋼管諏訪鉱業所の事務所と勤労奉仕隊員の学生宿舎として、滝の湯は東京の産婦人科医院の妊産婦避難施設として、親湯・高原ホテル・美遊喜館の3館は野比海軍病院の保養施設としていずれも所有権ごと強制的に接収された。
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