日本住血吸虫症の撲滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 06:31 UTC 版)
詳細は「日本住血吸虫」を参照 かつて筑後川流域のうち下流域は、利根川下流域の茨城県、富士川流域の山梨県甲府盆地、芦田川流域の広島県深安郡神辺町片山地区と並ぶ日本住血吸虫(にほんじゅうけつきゅうちゅう)の浸淫地で、寄生虫病のひとつである日本住血吸虫症(地方病)の有病地であった。 日本住血吸虫症とは、ミヤイリガイ(カタヤマガイ)という巻貝を中間宿主として、河水に入ったヒトなど哺乳動物に皮膚より日本住血吸虫の幼虫(セルカリア)が寄生、皮膚炎を初発症状として高熱や消化器症状といった急性症状を呈した後に、成虫へと成長した日本住血吸虫が肝臓や脾臓に巣食い慢性化、多数寄生して重症化すると肝硬変による黄疸や腹水を発症し、最終的に死に至る疾病である。当時は発症すると有効な治療法に乏しかったことから、多くの流域住民が感染し、病に倒れた。 筑後川流域では、特に支流の宝満川流域(宝満川本流、新宝満川、安良川)と筑後川の合流点から、現在の国道264号豆津橋一帯の福岡県久留米市・佐賀県三養基郡周辺が一大分布地であった。 福岡県をはじめ久留米市など流域市町村は、対策として、日本住血吸虫症患者の早期発見と治療、感染予防対策を行うほか、用水路への薬剤散布などで、宿主のミヤイリガイや最終宿主であるハタネズミなどの駆除を実施していたが、根本的な解決はミヤイリガイを人為的に絶滅させる以外方法はなかった。 そこで、筑後川の河川管理者である建設省九州地方建設局は、治水事業の一環として実施している河川整備に、日本住血吸虫症対策としてミヤイリガイ撲滅を併せて目的に組み入れることにした。具体的には河川敷を整地しコンクリート護岸を整備することで、ミヤイリガイの繁殖に適するススキ原や湿地帯を埋め立てることで、生息地を壊滅に追い込むことにあった。 建設省による事業は1965年(昭和40年)より開始され、まず宝満川流域で河川敷整備と水門の改築による護岸工事を実施した。この結果、宝満川下流域において、1970年(昭和45年)までに、新宝満川左岸部の久留米市小森野地区を除き、ミヤイリガイの根絶に成功。上流部の鳥栖市でも、1969年(昭和44年)のミヤイリガイ大発生以降は、ススキの刈り取りを徹底的に実施して根絶に追い込んだ。 しかし、新宝満川左岸の久留米市小森野地区では、その後も感染したミヤイリガイの棲息が継続的に確認されており、対策が求められていた。 建設省は1965年より筑後川治水事業第二次五ヵ年計画を策定、久留米市内の大規模築堤事業として「久留米市東櫛原大規模引堤事業」を計画。また水資源開発公団は、筑後川水系水資源開発基本計画の一環として筑後大堰の建設を計画した。この両事業は大規模な河川敷改修を伴うが、最後のミヤイリガイ分布地に建設されることから、同時に本格的な日本住血吸虫撲滅に乗り出した。 1984年(昭和59年)に筑後大堰、1993年(平成5年)に東櫛原引堤事業は完成するが、この間建設省・水資源開発公団は、徹底的な河川敷整備を行い、盛土や護岸整備で、久留米市など流域市町村では、河川敷の清掃を行ってススキなどを刈り取り、ミヤイリガイの生息域を壊滅させた。この結果、1990年(平成2年)に福岡県と久留米市はミヤイリガイ棲息調査を行い、ミヤイリガイが撲滅されたことを確認し「安全宣言」を発表した。 しかし日本住血吸虫症は慢性疾患であること、また調査の漏れをなくす理由から、さらに10年間の追跡調査を実施した。調査の末2000年(平成12年)、新規感染患者もミヤイリガイ発生も皆無だったことから「終息宣言」が発表され、筑後川流域から長年流域住民を悩ませた日本住血吸虫症の完全撲滅に成功した。同じ時期、他の感染区域であった利根川や富士川などでも撲滅され、日本は世界で唯一、日本住血吸虫症の撲滅に成功した。 日本住血吸虫症は、2014年現在では国内に存在しない反面、公衆衛生の観点とはいえ、筑後川流域からミヤイリガイを人為的に絶滅させたことは確かであり、久留米市にはミヤイリガイを供養するための「宮入貝供養碑」が建立されている。
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