日本のミシン史
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1854年にペリーが2度目の来航をしたときに、将軍家にミシンを送ったというものがもっとも古い記録である。この後、1860年にはジョン万次郎がアメリカからミシンを持ち帰っている。ちなみに、日本で最初にミシンを扱ったのは、天璋院だといわれている。 ミシンが普及をはじめるのは明治期になってからである。初期は輸入のみで、修理などを通じて技術を取得した技術者によって、徐々に国内生産が開始された。最初の製造業者は、江戸時代までは大砲職人であった左口鉄造であるとされ、1881年に東京で開かれた第2回内国勧業博覧会に国産ミシン第1号として展示された。 日本のミシン製造の量産は、1921年に創業したパイン裁縫機械製作所(現・ジャノメ)によってはじめられた。このころ(大正時代)から、日本でもミシンの量産がはじまった。ただし、量・質ともに、シンガーなどの輸入品にはかなわなかった。 しかし、外国製品は故障が多く、加えて品質が安定していない点に、ミシンの修理で生計を立てていた安井正義、實一兄弟(ブラザー工業創始者)が着目。彼らは、性能の良い国産ミシンは売れると確信し、製造に着手した。1928年(昭和3年)に「麦藁帽子製造用環縫ミシン」を発表し、販売し始める。発表年に因んで「昭三式ミシン」と呼ばれ、全く壊れないと大評判となり注文が殺到し、安井兄弟のミシンは瞬く間に広がった。耐久性の秘密はその「造り」にあると云われ、針があたっても壊れないよう「糸受け」を硬く加工しながらも内部に柔らかさを残す為、「浸炭焼入れ技術」という独自の方法を採用した。 第二次世界大戦が始まると家庭用ミシンの製造は禁止され、戦時中、ミシンは軍用ミシンのみが製作されることになる。 1945年に終戦を迎えると、ミシンの需要は飛躍的に増大した。ミシン工業は、戦災焼失による復元と、洋裁の普及による内需の増大に支えられて急速に復旧し、軍需工場の転換などもあつて、技術的にも高度のものとなった。繊維製品(既製服)が日本の輸出品になったことも大きかった。1947年、家庭用ミシンの規格が統一され、1948年から規格に基づいた製品の出荷が始まった。 また、国内販売分だけでなく、ミシンそのものも重要な日本の輸出品となり、船舶につぐ主要な機械輸出製品の地位を確保するに至った。ミシンの生産に対する輸出割合は、1950年(昭和25年)以降は概ね50%を越え、特に1954年(昭和29年)以降は70%以上となった。輸出はアメリカ合衆国向けが最も多く、輸出先は世界各国の半分程度を占めていた。ただし、特にアメリカ合衆国からダンピングの非難を受け、1956年(昭和31年)には輸出価格の大幅な引下げが行われ、輸出ミシン調整組合による輪出数量の調整を行わざるを得なくなった。輸出額は1950年の172億円から1955年には805億円に成長したが、1956年には384億円まで縮小した。 ミシンは工業用のほか、家庭用が多く作られた。その理由として、当時、日本の既婚女性の多くは家庭外で労働しなかったため、内職に使用することで副収入を得られるミシンが嫁入り道具として多く使われたことも大きい。ただし、国内ミシンメーカーの家庭用ミシンの工場が、1970年あたりを境として中国や台湾などに移転し始め、現在は高級機種等を除き、国内では家庭用ミシンはほとんど製造されていない。さらに、近年、工業用ミシンも低コスト化やアパレル産業の海外への移管などもあって、海外製造にシフトし始め減少傾向にあるが、ミシンは精密機械であるため、高精度の金属加工技術が要求され、部品の多くは依然日本で製造されている面もある。しかし、コストダウンのため海外(特に中国)で精密部品を生産することが主流である。 日本のミシン史関連の写真 1953年のパインミシンの広告 1953年のジューキミシンの広告 1956年のブラザーの編機とミシンの広告 1956年の蛇の目ミシンの広告 1952年のトヨタミシンの広告。「照明付」とある 1952年のリズムミシン(富士精密工業製)の広告 1954年の三菱ミシンの広告
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