日本のミニエー銃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 13:40 UTC 版)
江戸幕府は幕末の元治元年(1864年)にオランダ製ライフル・マスケットを採用した。しかし当時は南北戦争が終結直後であったため、アメリカから余剰武器のエンフィールド銃が約5万挺も輸入され同時に幕軍に配備されたほか、佐幕派・倒幕派双方の諸藩も制式小銃として購入・運用した。戊辰戦争では幕軍も新政府軍も主力はエンフィールド銃で、戦跡から出てくるのはほとんどがプリチェット弾である。箱館戦争では、新政府軍の装備するスナイドル銃と連発式のスペンサー銃は全軍の5%にも満たなかった。箱館政府軍が武装解除した際に引き渡された装備の内訳は、エンフィールド銃(二ツバンド三ツバンド)1,600挺に対しスナイドル銃(元込め銃)107挺だった。 幕府は本銃の配備と同時に、イギリスから同銃の操作・運用に関する資料を輸入し、当時幕府翻訳方であった福沢諭吉に翻訳させた。この操作マニュアルは「雷銃操法」と題され、のちに『福沢全集』に収録された。 幕末に坂本龍馬がミニエー銃400丁を買い付けていろは丸に乗せて運搬中に紀州藩の船と衝突し沈没したと主張したが、近年行われたいろは丸の調査ではミニエー銃は見つかっていない。
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