日本による領有
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 03:50 UTC 版)
1907年に日本漁船が現在の太平島付近で操業を開始し、1929年4月に日本人が太平島での硫黄採掘事業を開始した。世界恐慌の影響を受け間もなく採掘は中止となり、日本の業者は離島する。1933年4月にフランス軍が太平島を占拠し、日本人を退去させる。1935年に平田末治と海軍省、台湾総督府が協力して開洋興業株式会社を設立。1936年12月に開洋興業が太平島で硫黄採掘調査を実施。1938年にフランス軍やベトナム漁民を追い出し占領した日本が領有を宣言し、「新南群島」と命名する。 1939年(昭和14年)2月中旬、日本軍は海南島を軍事占領し、中華民国の蔣介石総統は「太平洋上の満州事変」と表現して反発、欧米列強も抗議の意志を表した。この状況下、日本政府は「大正6年以来 我が国人は何国人にも先立って巨額の資本を投下し恒久的諸施設を設けて同島嶼の経済的開発に従事し来った」と主張して、新南群島の領有を宣言する。3月30日付の台湾総督府令第31号により、新南群島が大日本帝国の領土として、台湾高雄市に編入される。3月31日、外務省はフランス駐日大使のシャルル・アルセーヌ=アンリ(フランス語版)を招いて本件を通告し、4月18日の官報で内外に公告した。フィリピン、ボルネオ島、インドシナ半島、マレー半島など近隣に植民地を抱える列強各国(アメリカ、イギリス、フランス、オランダ)に与えた脅威は大きく、特にアメリカは具体的な対日制裁措置を進めた。 1945年の第二次世界大戦終結まで日本が支配を続ける。ただし日本海軍は、終戦まで新南群島に有力な軍事基地の建設を行わなかった。1939年の台湾総督府告示第122号による新南群島中における主なる島嶼は、北二子島、南二子島、西青島、三角島、中小島、亀甲島、南洋島、長島(後に中華民国が太平島と命名)、北小島、南小島、飛鳥島、西鳥島、丸島である。資源開発としてリン鉱石採取の従事者が在住していたが、戦火の拡大により撤退し、終戦を迎える。 戦後の日本国政府の見解は「第二次大戦後の日本の領土を法的に確定したのはサンフランシスコ平和条約であり、カイロ宣言やポツダム宣言は日本の領土処理について、最終的な法的効果を持ち得るものではない。」との立場をとっている。 1952年(昭和27年)発効のサンフランシスコ平和条約の第2条では、台湾および澎湖諸島、新南群島(スプラトリー諸島)および西沙群島(パラセル諸島)の領土権(権利、権原および請求権)の放棄について明記されているが、放棄後どの国に帰属するかは取り決められていない。また、サンフランシスコ講和会議に招請されなかった中華民国との日華平和条約の第2条では、日本は台湾および澎湖諸島、新南群島および西沙諸島の領土権(権利、権原および請求権)の放棄について承認しているが、同条約第3条では、台湾および澎湖諸島としか記載されていないため、新南群島および西沙諸島が放棄後どの国に帰属するかは取り決められていない(サンフランシスコ平和条約、日華平和条約の条文を参照)。
※この「日本による領有」の解説は、「南沙諸島」の解説の一部です。
「日本による領有」を含む「南沙諸島」の記事については、「南沙諸島」の概要を参照ください。
- 日本による領有のページへのリンク