マーシャル諸島探検に関する疑問とは? わかりやすく解説

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マーシャル諸島探検に関する疑問

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 05:50 UTC 版)

鈴木経勲」の記事における「マーシャル諸島探検に関する疑問」の解説

1995年ミクロネシアフィールドとする考古学者高山純は『南洋の大探検家 鈴木経勲』を公刊し、その中で南洋探検実記』にある1884年マーシャル諸島探検に関する記述には多く矛盾不自然な点があり、信用しがたいことを指摘した高山は、鈴木らは1884年(および1885年)にはそもそもマーシャル諸島訪れておらず、『南洋探検実記』の内容机上作文である、と結論づけている。 鈴木経勲1884年探検について残した記述談話は、『南洋探検実記』をはじめ、1884年当時の新聞報道から晩年談話に至るまで多数にのぼるが、話のたびに内容違っている。たとえば、『南洋探検実記』には、ナム島の酋長とオジャ島の副酋長マーシャル諸島ラーボン王の代理人もしくは人質)として横浜に連れ帰ったが、二人日本寒さに耐えきれず「凍死」してしまった、とあるが、他のところでは連れ帰ったのは水夫代わりに雇った人夫だとしていたり、日本従属誓約証拠だとしていたり、人数2人であったり3人であったり、無事に送還したとしていたりと、話が一定していない。また、ラーボン王邸に国旗掲げさせて日本による領有宣言したことで、井上馨外務卿怒りを買い、翌1885年国旗降ろすため再渡航した、という話は『南洋探検実記』には見られず、昭和期入ってから「明治十七マーシャル諸島に使して」(『南洋諸島第2巻第4号1936年)や「南洋回顧談」(『明治大正史談』第4 - 12輯、1937 - 38年)などで初め語られるのであるそれどころか『南洋探検実記』では、ドイツ植民地化宣言したため再渡航断念した明言している。そもそも国旗掲げたというだけでは領有宣言になり得ない。さらに問題なのは、ラーボン王はアイリングラプラプのオジャ島にいたとされているが、実際にはこの王はドイツ承認されラリック列島の王で、ジャルート環礁居住していた、という点である。外務省提出された『復命書』には、ラーボン病気のためジャルート環礁から出られなかった、という、『実記』と明らかに矛盾する記述がある。そもそも当時マーシャル諸島実質的な首都であり、領事館なども置かれていたジャルート環礁訪れていないというのは不自然である。 このほか、日本人漂流民がどこの出身だったのかもはっきりせず後年の「明治十七マーシャル諸島に使して」「南洋回顧談」で、初めて「紀州人」だと説明されるうになる。また船名不明であり、被害者数も6人であったり7人であったりと一定しない事件発覚したいきさつも、説明のたびに異なっている。エーダ号が捕鯨船なのか商船なのかも曖昧である。 また、武器として鳥銃刀剣しか持っていないはずの鈴木後藤が、ラエ島につくなり、酋長ラリレを日本人殺害犯として逮捕したとしているが、当時マーシャル諸島にはすでにライフル普及しており、鈴木たちのほうが圧倒的に不利であったはずである。さらに、『南洋探検実記』では、ラリレたちをアイリングラプラプに連行して斬首ようとしたところ、臨席してたラーボン王が急病苦しみしたため刑の執行停止して次回マーシャル諸島戻ってくるまで犯人拘束しておくよう頼んだとあるが、このような身勝手な要求受け入れられたとは信じがたい。 これ以外にも高山指摘している不審点は、 カヌーでの航海に際して天候上の問題があった様子がない カヌー航海船団組んで行われるのに、そのこと記述されていない 珊瑚礁なのに淡水池あるよう記述がある ヤシガニ足首切り落とされる者がいると書かれているが、そのような実例はない 椰子の実食べ方の説明デタラメである ブーメラン状の猟器を見た主張しているが、実際にマーシャル人はブーメラン使っていない マーシャル人は王や酋長以外の遺体埋葬せず放置し、さらにその遺体食べことがあるとしているが、そのような事実はない など多数にのぼる。さらに、『南洋探検実記』の記事日を追って書かれているのに、1884年9月29日の次が11月8日になっていて、一か月あまりの不自然な空白があることが指摘されているが、これも机上作文ゆえの手違いだとすれば説明がつく。 また、鈴木虚偽報告書捏造した理由について、高山は、杉山茂丸『百魔』(および、主に同書依拠している星新一明治人物誌』)に、後藤猛太郎井上馨外務卿から与えられ調査費用浪費してしまったという真偽不明記述があることから(なお、杉山も星も渡航自体事実としている)、これは後藤実際にマーシャル諸島渡航しておらず、公金浪費をごまかすために鈴木経勲報告書でっちあげもらったことを示唆しているのではないか、と指摘している。高山は、『南洋探検実記』の内容には、1884年マーシャル諸島ウジャエ環礁起こったアメリカレイニア号の遭難に関する記録(J. H. Humphrey, Wreck of Rainier: a sailor's narrative, 1887)と不自然に酷似する箇所が多いことから、経勲は同書下敷きにしたと推定している。 マーシャル諸島探検そのもの虚偽である、という高山主張については行き過ぎとする批判もあるが、鈴木記述信憑性については大きく揺らいでいる。 なお、1997年中村茂生が防衛研究所史料の中から紹介した鈴木の「経歴書」では、鈴木生年月日安政2年12月12日1856年1月19日従来の説では1年前の嘉永6年とされていた)となっているなど、従来知られいたものとは異な経歴記されている。また、1885年の再渡航については記されていない

※この「マーシャル諸島探検に関する疑問」の解説は、「鈴木経勲」の解説の一部です。
「マーシャル諸島探検に関する疑問」を含む「鈴木経勲」の記事については、「鈴木経勲」の概要を参照ください。

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