日本での戦歴
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「スコット・アーウィン」の記事における「日本での戦歴」の解説
日本には全日本プロレスに計3回、いずれも覆面レスラーとして来日している。初来日となる1980年10月の『ジャイアント・シリーズ』ではベテランのジ・アベンジャーと大型覆面タッグを組んだが、テリー・ファンク、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ワフー・マクダニエル、ビル・ロビンソン、ディック・マードック、キラー・トーア・カマタら豪華メンバーが集結した同シリーズにおいては目立った活躍を残せなかった。このシリーズにはジ・アステロイド(The Asteroid)名義で参戦しており、同時期、アーウィンはアメリカ南部でアステロイドとスーパー・デストロイヤーの2つのリングネームを使い分けていた。 2度目は1982年11月、スーパー・デストロイヤー名義で『'82世界最強タッグ決定リーグ戦』に上田馬之助と組んで出場。即席コンビということもあり得点ゼロの最下位に終わったものの、同シリーズにレフェリーとして来日していたルー・テーズは「スタン・ハンセンやブルーザー・ブロディよりも腕力は上」と評価していた。なお、同時期に新日本プロレスが開催した第3回MSGタッグ・リーグ戦にも、ジョージアでタッグを組んでいたマスクド・スーパースターとの覆面コンビで参加が噂されたことがある。 最後の来日となった1984年2月の『エキサイト・シリーズ』にはビル・アーウィンとのスーパー・デストロイヤーズで参戦。2月26日に大阪府立体育館にて、阿修羅・原&石川隆士のアジア・タッグ王座に挑戦した。素顔での来日は1度もなかったが、初来日を果たす前の1980年6月29日、カナダのトロントで素顔のスコット・アーウィンとしてブルーザー・ブロディのパートナーに起用され、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦している。
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日本での戦歴
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「ドン・中矢・ニールセン」の記事における「日本での戦歴」の解説
1986年(昭和61年)10月9日 - 両国国技館で行われた新日本プロレス「INOKI 闘魂 LIVE」の第7試合で、前田日明と3分10Rの異種格闘技戦で対戦。打撃で攻め立てるニールセン、蹴りと組んで関節技を狙う前田との緊張感溢れる熱戦は格闘史に残る名勝負となり、最後は5R2分26秒、逆片エビ固めを極められ敗退。この試合で、前田は「新・格闘王」の称号を得た。 1987年(昭和62年)3月27日 - 前田との異種格闘技戦で人気急騰したニールセンは大阪城ホールで行われた新日本プロレス「INOKI 闘魂 LIVE Part2」で再来日。チャーリー・アーチとマーシャルアーツIWA認定クルーザー級USアメリカン選手権3分10Rで対戦、3R50秒KO勝ち。 10月30日発売の週刊ファイト1987.11.6号で、ニールセンが電話取材で新日本プロレスの年末の特別興行で高田延彦と異種格闘技戦を行うと証言したと報じる。11月6日発売の週刊ゴング1987.11.20号では「12・27両国「INOKI闘魂LIVE3」の3大目玉カード」の一つとして高田vsニールセンの可能性が記事になったが実現しなかった。 1988年(昭和63年)5月8日 - 新日本プロレス「'88 スーパーファイト・シリーズ」最終戦 有明コロシアム大会で山田恵一と異種格闘技戦で対戦。山田のタックルで再三テイクダウンされるがペースを握らせず。4ラウンドに放ったローキックで負傷した山田の右足に追い打ちをかけ4R1分3秒、KO勝ち。試合後、リングサイドにいた山田の骨法の師、堀辺正史が舐めた態度で試合をしていたニールセンに激高、「次は俺と戦え!」と突っかかる場面がみられた。 7月29日 - 新日本プロレス「'88 サマーファイト・シリーズ」有明コロシアム大会で藤原喜明と異種格闘技戦で対戦。終始、藤原をコーナーに追い込み打撃で圧倒。5R1分46秒、レフリーストップによるTKO勝ち。 1989年(平成元年)5月14日 - 後楽園ホールで行われた全日本キックボクシング連盟 「世紀の激突・Part 3」でロブ・カーマンとの前哨戦としてケビン・ローズイヤーのWKA世界スーパーヘビー級タイトルに挑戦。ニールセン贔屓のマッチメイクのはずが、体格で勝るローズイヤーに圧倒され6RKO負け。 9月5日 - 日本武道館で行われた全日本キックボクシング連盟 8年8ヵ月ぶりの武道館興行「REAL BOUT」のメインでWKAヨーロッパライトヘビー級王者“欧州の蹴撃王”ロブ・カーマンと85kg契約3分5Rキックルールで対戦。人気者ニールセンと帝王カーマンの激突は話題を呼んだが、終始カーマンのローキックに翻弄され3R44秒、カーマンの右フックでリングに蹲りKO負け。キックでの実力不足を露呈する結果となった。 1990年(平成2年)6月30日 - 日本武道館で行われた全日本キックボクシング連盟 「INSPIRING WARS “HEAT630”」で正道会館所属でキックデビュー戦となる佐竹雅昭と3分5Rヨーロッパキックルールで対戦。佐竹の明らかに故意の頭突きが複数回入り、レフリーが試合を制止する直前に佐竹の右ストレートが決まり、1R2分7秒KO負け。ニールセン側から「頭突きで負けたんだ」とクレームがつき再戦要求されたが、頭突きの反則はレフリーが佐竹に減点1を宣告した事で解決してるとし抗議は受け入れられなかった。 1992年(平成4年)5月15日 - 大阪府立体育会館で行われた藤原組「獅子王伝説Part2」のメインイベントで藤原喜明と異種格闘技戦で再戦。ニールセンのハイキックで藤原が瞼の上部を切り流血、1R1分7秒レフリーストップによりTKO勝ち。 10月4日 - 藤原組「STACK OF ARMS」東京ドーム大会で、ウェイン・シャムロックと異種格闘技戦で対戦 1R45秒、腕固めで一本負け。 11月14日 - 日本の興行ではないが、米国ラスベガスのユニオンプラザホテルアンドカジノで行われた「チャンピオンシップ・シリーズ・オブ・キックボクシング」に、全日本キックボクシング連盟の清水隆広、前田憲作、熊谷直子らと共に出場。フランスのジャン・クロード・ルワンとWKAインターナショナルヘビー級王座決定戦3分5Rを行い、1R22秒、TKO勝ち。ニールセンが王者となる。 1993年(平成5年)5月22日 - 後楽園ホールで行われた全日本キックボクシング連盟 「EVOLUTION STEP 3」で平岡功光とムエタイルールで対戦。10kg以上軽量の平岡に対し2R2分37秒、左ハイキックでKO勝ち。(当時、WKA世界クルーザー級8位として出場) 6月25日 - 大阪府立体育会館で行われた正道会館 「聖戦 〜SANCTUARY III〜 風林火山 "風の章"」で佐竹雅昭とUKF世界ヘビー級王座決定戦で2度目の対戦。ヒジありの特別ルールで試合をするが、1R2分30秒 3ノックダウンのTKO負けで返り討ちにあった。 1994年(平成6年)1月21日 - RINGS 「BATTLE DIMENSION TOURNAMENT'93」の第6試合スペシャルマッチで長井満也との対戦を組まれたが怪我により欠場。 1995年(平成7年)6月17日 - RINGS 「RISING SERIES MINAZUKI」有明コロシアム大会で再び長井との対戦が発表されたが出場せず。以後、日本の格闘技興行へは出場していない。
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