料理研究家として
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1906年(明治39年)には、夫の弦斎が携わっていた料理雑誌『月刊食道楽』や、弦斎が顧問となり、日本女性の独立・自立を目指して同年に創刊された雑誌『婦人世界』の創刊号で、自身が考案した料理服である割烹着を発表した。 『婦人世界』では、弦斎に代わって料理情報の提供を行い、同年の夏頃から『弦齋夫人の料理談』を連載した。この連載は、同誌の看板記事となり、翌1907年(明治40年)から1912年(明治45年)にかけて全4編の単行本として出版された。連載『弦齋夫人の料理談』の関連シリーズは、この後も『婦人世界』の定番記事として昭和まで続いた。1913年(大正2年)から1915年(大正4年)にかけては、『弦齋夫人の家庭相談』と題し、衛生・家政に関する研究や実験などの様々な知識を披露している。このほか、1906年には『婦人画報』の秋季臨時増刊号にも西洋料理法に関する記事を寄稿した。 大正時代に入ってからは、弦斎は断食や木食といった健康法を試すようになり、世間から奇異な目で見られることもあったが、多嘉子自身も断食に挑むなど最大の理解者として夫を支えた。1915年(大正4年)からは子供たちの進学に伴って夫と離れて再び東京へ移り、小石川麦町、伝通院前、池袋に住んだ。1923年(大正12年)の関東大震災の際には自宅を対策本部に提供して配給の玄米の炊き方を伝授している。 1927年(昭和2年)に弦斎が死去した後は、土地を切り売りし、料理指導を行って生計を立てた。1929年(昭和4年)に小石川で村井食道楽会を結成。村井食道楽会の立ち上げを取り上げた新聞記事では、将来的には珍味や通の食品の販売や調理を行い、同好の者と楽しむという目標を語っている。また、愛泉女学校や跡見学園といった学校で教壇に立ち、相馬黒光に請われて食品メーカー中村屋の料理や菓子の相談を受けていたこともある。 料理指導と並行して執筆活動も続け、1928年(昭和3年)から『婦人公論』で料理記事を連載するようになり、「温かくて手軽な鍋料理」「滋養のある病人料理」「季節向の野菜料理」「季節向の風変わりな酢の物料理」「パンに向く副食物」といったテーマでレシピを発表。料理雑誌『月刊食道楽』では「しつぽく鍋」や「鮭のコロッケ」など、和洋の家庭料理に関する計6件の料理研究記事を執筆した。食生活・ジェンダー学者の今井美樹によると、当時の同誌に女性の書いた記事が掲載されるのは稀なことだった。1930年(昭和5年)には『一年間のお惣菜』、1937年(昭和12年)には『栄養と経済を主としたる手軽なお弁当の作り方』を刊行している。 第二次世界大戦後は長男夫妻とともに平塚に住み、読書をしながら過ごした。1960年(昭和35年)8月6日、80歳で死去。平塚の豊田慈眼寺に眠る。
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