料理研究家としてとは? わかりやすく解説

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料理研究家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 00:01 UTC 版)

村井多嘉子」の記事における「料理研究家として」の解説

1906年明治39年)には、夫の弦斎が携わっていた料理雑誌月刊食道楽』や、弦斎が顧問となり、日本女性独立自立目指し同年創刊され雑誌婦人世界』の創刊号で、自身考案した料理服である割烹着発表した。 『婦人世界』では、弦斎に代わって料理情報の提供を行い同年の夏頃から『弦齋夫人料理談』を連載した。この連載は、同誌の看板記事となり、翌1907年明治40年)から1912年明治45年)にかけて全4編の単行本として出版された。連載『弦齋夫人料理談』の関連シリーズは、この後も『婦人世界』の定番記事として昭和まで続いた1913年大正2年)から1915年大正4年)にかけては、『弦齋夫人家庭相談』と題し衛生家政に関する研究実験どの様々な知識披露している。このほか、1906年には『婦人画報』の秋季臨時増刊号にも西洋料理に関する記事寄稿した大正時代入ってからは、弦斎は断食木食といった健康法を試すようになり、世間から奇異な目で見られることもあったが、多嘉子自身断食挑むなど最大理解者として夫を支えた1915年大正4年)からは子供たち進学伴って夫と離れて再び東京移り小石川麦町、伝通院前、池袋住んだ1923年大正12年)の関東大震災の際には自宅対策本部提供して配給玄米炊き方を伝授している。 1927年昭和2年)に弦斎が死去した後は、土地切り売りし料理指導行って生計立てた1929年昭和4年)に小石川村井食道楽会を結成村井食道楽会の立ち上げ取り上げた新聞記事では、将来的には珍味や通の食品販売調理行い同好の者と楽しむという目標語っている。また、愛泉女学校跡見学園といった学校教壇に立ち、相馬黒光請われ食品メーカー中村屋料理菓子相談受けていたこともある。 料理指導並行して執筆活動続け1928年昭和3年)から『婦人公論』で料理記事連載するようになり、「温かくて手軽な鍋料理」「滋養のある病人料理」「季節向の野菜料理」「季節向の風変わりな酢の物料理」「パンに向く副食物」といったテーマレシピ発表料理雑誌月刊食道楽』では「しつぽく鍋」や「コロッケ」など、和洋家庭料理に関する計6件の料理研究記事執筆した食生活ジェンダー学者今井美樹によると、当時の同誌に女性書いた記事掲載されるのは稀なことだった。1930年昭和5年)には『一年間お惣菜』、1937年昭和12年)には『栄養経済を主としたる手軽なお弁当作り方』を刊行している。 第二次世界大戦後長男夫妻とともに平塚住み読書しながら過ごした1960年昭和35年8月6日80歳で死去平塚豊田慈眼寺に眠る。

※この「料理研究家として」の解説は、「村井多嘉子」の解説の一部です。
「料理研究家として」を含む「村井多嘉子」の記事については、「村井多嘉子」の概要を参照ください。

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