文明開化と江戸落語
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1868年の明治維新によって寄席の世界にも近代化の波が押し寄せることとなった。 天保以降、寄席芸能は上述の「四業」に制限されたが、明治新政府も当初その方針を踏襲し、明治2年(1869年)10月、東京府によって物まねや音曲、歌舞伎の所作のまねなどをしないよう布告されている。明治5年(1872年)10月には、寄席の新規免許には2円(翌年から年1円)、また寄席1軒につき毎月50銭ずつ納めることを義務づけた。1876年(明治9年)4月、東京府権知事楠本正隆の名で、諸芸人に対し鑑札を発行し、賦金(営業税)を課すことが当局より布告された。これにより芸界の統一も不可欠となり、芸人仲間のうちで人望と実力のある三遊亭圓朝、3代目麗々亭柳橋、6代目桂文治の3人が頭取として選ばれ、かれらが交代で月番で責任を負うシステムが作られた。記録によれば、賦金は上等の落語家は月50銭、下等の落語家は月25銭であったという。ちなみに、1877年(明治10年)ころの寄席の木戸銭は通常では2銭5厘、圓朝が出演する場合は5銭であった。くじ売りの禁止や卑猥な演目の制限、深夜営業の禁止など警察による寄席の取締も徐々に厳しくなり、高座は健全化されていった。 幕末から明治にかけて、落語界では不世出の名人として称えられる三遊亭圓朝が活躍し、「真景累ヶ淵」「塩原多助一代記」などの創作咄やヨーロッパの説話に題材を得た「死神」など、多くの咄を世にあらわした。同時期に日本語での速記法が実用化され、これを活かして圓朝の高座を書き記した速記本は当時の文学、特に言文一致の文章の成立に大きな影響を与えている。圓朝はまた弟子の教育にも力をいれ「圓朝四天王」(初代圓馬・3代目圓生・4代目圓生・2代目圓橘)をはじめ多くの優れた落語家を輩出した。江戸落語はこうして明治になって一応の完成をみた。なお、1881年(明治14年)段階で東京市には149軒の寄席があり、落語家は362人いたという記録がある。 西南戦争後、薩長藩閥政府が政権の地歩をかためて地方人士がこぞって東京をめざすようになると、寄席演芸も変容し、江戸以来のしっとりとした人情噺よりもむしろ手っ取り早く笑いをとる芸がもてはやされるようになり、明治10年代の中ごろには「ステテコの圓遊」(初代三遊亭圓遊)・「ラッパの圓太郎」(4代目橘家圓太郎)・「へらへらの萬橘」(初代三遊亭萬橘)・「釜掘りの談志」(4代目立川談志)の、俗に「珍芸四天王」と称される芸人が人気を博した。なかでも圓遊は、珍芸のみならず従来の噺を当世風に改作する巧妙さでも知られ、絶大な人気を獲得した。圓遊の改作として知られるのが「野ざらし」「船徳」「ほまれの幇間」であり、それぞれいずれも本来の作品をより陽気な滑稽噺に仕上げた。 明治10年代の終わりごろから、東京の落語界は柳派と三遊派に分かれ、互いに競い合う体制となった。柳派は初代柳亭燕枝(初代談洲楼燕枝)、三遊派は三遊亭圓朝によって立て直され、芸風、贔屓衆等ことごとに対抗した。それぞれの芸風は「柳隠居に三遊若旦那」と形容され、柳派は洒脱で洗練された芸を身上とするのに対し、三遊派が派手で明るい芸風を持ち味とした。 なお、上述の圓遊とほぼ同時期に活躍したのが柳派から現れた2代目柳家小さん(禽語楼小さん)であり、やはり滑稽噺を得意とした。しばしば「圓遊・小さん」と並び称され、明治20年代から30年代にかけて一世を風靡し、このふたりが従来の連続の人情噺ではなく一席物の落とし噺(滑稽噺)で寄席のトリをとる先がけとなったといわれている。
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