教会と政治
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「サミュエル・アームストロング」の記事における「教会と政治」の解説
アームストロングはオールド・サウス教会の会員だった。その教区役員(その秘書も含む)を務め、1829年には助祭に選ばれた。教会が正式に法人化された1844年、アームストロングはその所有権者の1人に指名された。1816年、アームストロングは教会の塔の中で、植民地時代の総督ジョン・ウィンスロップが著した『ニューイングランドの歴史』第3巻の原稿を発見した。この原稿はマサチューセッツ歴史協会に寄付された。教会の初期の牧師だったトマス・プリンスが教会に遺贈した5冊の本の1冊、17世紀のベイ詩編の完本を教会が失くしたとき、アームストロングにもその責任の一端があった。著作家のロバート・ウォレスは、アームストロングがジョージ・リバモアとエドワード・クラウニンシールドの2人からの申し出で、その本の写し2部を渡し、他の写しを再度製本したのが迂闊だったと示唆している。これは基本的に詐欺であり、リバモアもクラウニンシールドも稀覯本の取引には知識があり、貴重な書籍を格安で取得したということだった。 アームストロングは1812年には既に公的な事情に関わるようになっており、米英戦争ではボストン民兵隊に仕えた。マサチューセッツ州議会下院議員に当選して政界に入り、1822年から1823年と1828年から1829年の2期を務めた。1828年から1830年までボストンの市政委員も務めた。1833年、州の反メイソン党からマサチューセッツ副知事候補に指名すると提案があった。反メイソン党はフリーメイソンを廃止すべきという見解であり、アームストロングはそれに同意できなかったので指名を辞退した。しかし、ホイッグ党の推薦で副知事に当選し、最初はリーヴァイ・リンカーン・ジュニア、その後ジョン・デイビス各知事の下で副知事を務めた。アームストロングが労働者階級の出身だったので、ホイッグ党の新聞が労働問題に焦点を当てて設立された第3の政党である労働者党の党員に対するアピールに使った。1834年の選挙運動ではアームストロングのことを「機械工と労働者」と表現していた。 1835年3月、州知事のデイビスがアメリカ合衆国上院議員に選ばれて就任するために州知事を辞任したとき、アームストロングが1836年まで州知事代行を務めた。1836年の選挙運動では、アームストロングがホイッグ党から州知事候補への指名を求めたが、エドワード・エヴァレットが反メイソン党から支持を得られるということになり、エヴァレットが候補指名された。アームストロングは政党の支持なしに州知事選挙に出馬し、エヴァレットと>民主党の永遠の知事候補マーカス・モートンの後塵を拝し、第3位と惨敗した。 州レベルの選挙での敗北とは対照的に、アームストロングは1836年にボストン市長に当選した。その2年間の政権で公的な改善を行った主要事項はボストンコモンの周りに鉄製のフェンスを造り、ボイルストン通りのプロムナードを拡張したことだった。その工事契約は前任のセオドア・ライマンが決めていたものを引きずっただけだったが、アームストロングが工事を監督し、工事の影響を受けた中央墓地の遺骸を移し替える仕事を完遂した。この作業について幾つかの家族からの反対もあったが、関係者に新しい御影石の墓石を無償で提供することで、説得できた。 1839年、アームストロングはマサチューセッツ州上院議員に選出され、1期を務めた。1845年ニューイングランド歴史系譜協会の会員となり、その死の時までその事業に関わった。アームストロングは1850年にボストンで死んだ。ケンブリッジのマウントオーバーン墓地に埋葬されている。アームストロングは1812年にチャールズタウンのアビゲイル・ウォーカーと結婚した。夫妻に子供はなかった。
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