教会と領主司教の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 05:44 UTC 版)
「クール (スイス)」の記事における「教会と領主司教の歴史」の解説
現代のカトリック教会のクール教区は、グラウビュンデン州、グラールス州、チューリッヒ州、ウンターヴァルデン州、ウーリ州で構成されている。リヒテンシュタインも1997年まではクール教区の管区であったが、教皇の布告により分割されて、独立したファドーツ/リヒテンシュタイン大司教区となり、それまでのクール司教でリヒテンシュタイン出身であったヴォルフガング・ハース(Wolfgang Haas)が初代の大司教となった。 クール司教は、St. Asimo司教がミラノ公会議に出席した451年/451年に初めて文献に現れるが、おそらくそれより1世紀前には既に存在していたものと思われる。司教区は当初ミラノの管轄で、後に843年にマインツへ移管された。中世から近世初期までのその範囲は、今日イタリアに含まれるヴェノスタ峡谷とそこにあるメラーノを第2の中心として含み、さらに今日のオーストリアになるフォラールベルク(Vorarlberg)、またリント川(Linth river)の峡谷をチューリッヒ湖の南端まで含んでいた。 クール司教は7世紀から15世紀まで、地域の世俗の統治者としても重要で、その支配権が1450年頃からグラウビュンデン三同盟自由国を形成することになる共同体同盟の1つである、ゴッテスハウスブントを形成する骨格となった。1524年と1526年の2回にわたるイランツ条項(Ilanz Articles)で、三同盟自由国は司教の政治的な支配を拒絶したが、後に司教はこの条項を拒絶して政治的な力を再び主張しようとした。近代初期まで、司教は神聖ローマ帝国の諸侯であり続けたが、滅多に国会に出席することはなかった。宗教改革中には、管区内のドイツ語、ロマンシュ語、イタリア語人口のかなりの部分が改革派となったが、特にヴェノスタ峡谷を中心に多くの人口がカトリックにとどまった。 ヨハネ・パウロ2世の意を受けた保守的な立場をとる教区のかなりの数のカトリック信者の理解を得て、1990年にヴォルフガング・ハースがクール司教に任命されると、彼が初代リヒテンシュタイン大司教に任命される1997年まで、教区内に数年にわたってかなりの反対を引き起こした。 何人かの聖人と並外れた人々がクール教区の栄光に貢献している。歴代司教のうち4人が列聖している。450年頃のSt. Asimo、530年-548年のSt. Valentinian、760年のSt. Ursicinus、1151年から1160年のSt. Adalbertである。1621年のオーストリア軍による占領期に、地域のプロテスタント信者を転向させるために派遣されたカプチン会神父であるFidelis von Sigmaringenは、教区内のゼーヴィス(Seewis)の村で1622年に殉教した。 1906年にミュンヘンで発行されたKirchliches Handlexikonによれば、教区内のカトリック人口は248,887人であるのに対して、非カトリック人口は431,367人であった。
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