敗戦国の全権とは? わかりやすく解説

敗戦国の全権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 19:51 UTC 版)

重光葵」の記事における「敗戦国の全権」の解説

重光敗戦直後組閣された東久邇宮稔彦王内閣外務大臣再任され、日本政府全権として降伏文書署名するという大役引き受ける。1945年昭和20年9月2日東京湾上に停泊したアメリカ戦艦ミズーリ甲板上で行われた連合国への降伏文書調印式において、大本営代表の参謀総長梅津美治郎と共に日本全権として署名行った重光はこれを「不名誉終着点ではなく再生出発点である」と捉えその時心境を「願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを」と詠んでいる。 戦後日本占領したGHQは、占領下においても日本主権認めるとしたポツダム宣言反故にし、行政・司法立法三権奪い軍政を敷く方針示した公用語も英語にするとした。重光葵は、マッカーサー相手に「占領軍による軍政日本主権認めたポツダム宣言逸脱する」「ドイツ日本は違う。ドイツ政府壊滅した日本には政府存在する」と猛烈に抗議し布告即時取り下げ要求その結果占領政策日本政府通した間接統治となった外相辞任後は、極東国際軍事裁判における外務省関係容疑者弁護準備進めていたが、1946年昭和21年4月13日来日したソ連代表検事セルゲイ・A・ゴルンスキーロシア語版)がジョセフ・キーナン首席検事に対して重光第二次世界大戦中東條内閣小磯内閣外務大臣務めたことを理由として、重光A級戦犯として起訴するよう強硬に要求してきた。 当初GHQ重光戦犯として起訴する意思皆無で、キーナンはじめとするアメリカ側検事団も強く反対した。しかし、当時アメリカ民主党政権は「要求受け入れられないのなら、裁判参加しない」というソ連側揺さぶり屈する形となり、マッカーサー要求容認せざるを得なくなった結局4月29日起訴当日逮捕起訴され、1948年昭和23年11月12日有罪禁固7年判決受けた裁判においては高柳賢三ジョージ・ファーネス弁護人尽力などもあって、その判決禁固7年というA級戦犯の中では最も軽いものとなったが、日本だけではなく当時欧米メディア重光無罪間違いない予想していただけに、有罪判決ソ連満足させるためのGHQによる政治的妥協であると評する声も多かった事実当時巣鴨プリズン憲兵務めていたブルーム大尉は「驚いた貴下無罪何人も疑わぬところであった」と憤り表し、ケンワージー中佐などは「判決絶対に覆るはずだ」とまで述べていたという。 4年7ヵ月服役の後、1950年昭和25年11月21日巣鴨拘置所仮出所高柳ファーネス弁護士出迎える中、拘置所デービス中佐握手所員拍手で見送る中、拘置所を後にし自宅へと戻った仮出所処分は、1952年連合国日本講和条約発効後、講和条約規定基づいて日本政府極東国際軍事裁判参加した全ての国の政府との合意により、恩赦により刑の執行終了した

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