政府艦隊の遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 01:14 UTC 版)
「トリー・スヴャチーチェリャ (戦艦)」の記事における「政府艦隊の遠征」の解説
ポチョムキン=タヴリーチェスキイ公の叛乱はまったく組織だっておらず、実質的にはたんなるデモンストレーションでしかないようなものであったが、思いがけず国体を揺るがすこととなった。皇帝ニコライ2世はポチョムキンの叛乱が危険なものであると憂慮し、この艦が赤旗を掲げたまま黒海で航行を続けることを許容すべきでないと考えていた。そのため、黒海艦隊司令官チュフニーン海軍中将に対し、速やかに叛乱を鎮圧し、万が一には叛乱艦をその乗員諸共撃沈すべしとする勅令を発した。サンクトペテルブルクにいたチュフニーンは現地のA・Kh・クリーゲル海軍中将を名代に指名し、事態に対処するよう命じた。 6月16日午前1時、セヴァストーポリからオデッサへ向けて政府艦隊の第一陣が出港した。連合艦隊には、ヴィシュネヴェーツキイ少将の乗るトリー・スヴャチーチェリャを旗艦に、艦隊装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツ、ドヴェナッツァチ・アポーストロフ、水雷巡洋艦カザールスキイ、第255号、第258号、第272号、第273号水雷艇が名を連ねていた。これらは選りすぐりの忠義なる艦艇のはずであったが、それでも各艦艇には危険分子とみなされる乗員がおり、彼らは陸へ降ろされていた。そのため、どの艦でも欠員のために大なり小なり運用に支障が生じていた。 同日、セヴァストーポリ市、ニコラーエフ市、エレヴァン県には戦時体制が宣言された。セヴァストーポリでは、クリーゲル中将がポチョムキン鎮圧のための第二の艦隊を編成していた。19時近くにセヴァストーポリから艦隊装甲艦ロスチスラフを旗艦とする、シノープ、水雷艇駆逐艦ストローギイおよびスヴィレープイからなる艦隊がオデッサに向けて出港した。一方、社会主義にひどく熱中していた艦隊装甲艦チェスマとエカチェリーナ2世はセヴァストーポリに留め置かれた。 6月16日17時20分、ヴィシュネヴェーツキイの連合艦隊はテーンドル湾に到着した。ヴィシュネヴェーツキイは、砲火を交えることなしに兵糧攻めでポチョムキンの叛乱兵らを降伏させることを第一の目標と定めた。一方で、万が一の場合に備え、従えたる水雷艇に魚雷戦の準備を整えさせた。 出撃に当たり、一般の士官・水兵らにはポチョムキンの叛乱についての情報は与えられていなかった。ましてや、彼らがその鎮圧のために出撃するのだということは何も知らされていなかった。しかし、情報は漏れ出ており、一部の艦では専らその話題で持ちきりになっていた。19時過ぎ、テーンドル湾でその作戦内容が各指揮官・船員らに知らされると、各艦に大きな動揺が走った。これが昂じて、革命気分の高まった何隻もの艦がポチョムキンへの攻撃機会を前にそれを実行しないという事態が引き起こされることになる。 オデッサ市当局は15時から今や遅しと政府艦隊の到着を待っていたが、その間にはポチョムキンが的外れな市街地砲撃を実行していた。ポチョムキンの砲弾は狙った当局関係施設に命中せず、一般市民の上に降り注いだのである。一方、テーンドル湾のヴィシュネヴェーツキイ少将は作戦の進行を急がなかった。ヴィシュネヴェーツキイが作戦を次の段階に移したのは、ようやく19時55分になってからであった。なおこのときに至っても、彼は危険を伴うポチョムキンへの乗員派遣を避けた。すなわち、第255号水雷艇と第258号水雷艇をオデッサへ向けて派遣したが、これはたんにポチョムキンの居場所を探る偵察のためだったのである。21時近くになって、ヴィシュネヴェーツキイは港湾当局に対し政府艦隊の到着を伝え、叛乱艦の位置を教えられたしと打電した。市側はヴィシュネヴェーツキイへ可能な限り早期にオデッサへ入港することを要求し、同時にチュフニーンに対してはヴィシュネヴェーツキイを急がせるよう請願する電報を打った。 翌17日4時10分、ヴィシュネヴェーツキイ艦隊は碇を上げてオデッサへ向けて出航した。しかし、4時45分には停止し、オデッサから戻った第255号水雷艇および第258号水雷艇と合流した。4時50分、両水雷艇は旗艦トリー・スヴャチーチェリャへ接近し、偵察任務の報告を行った。5時25分、ヴィシュネヴェーツキイは航海の継続を命じた。オデッサ燈台を回った艦隊は、8 knの低速で港へ接近した。ヴィシュネヴェーツキイは、ポチョムキンとの接見に際して発生しかねない叛乱を警戒していた。 ポチョムキンからヴィシュネヴェーツキイの艦隊が視認されたのは、午前8時10分のことであった。ヴィシュネヴェーツキイ艦隊はわずか6 knで接近中であった。ポチョムキンは碇を上げ、機関に火を点した。第1艦隊の接近以前にポチョムキンでは第2艦隊の無線通信を傍受しており、政府艦隊の接近を察知していた。 ヴィシュネヴェーツキイは、叛乱艦へ向けて「醜聞」を中止するよう無線通信で呼びかけた。ポチョムキンからは、よく見えないため繰り返されたしとする返答があった。 ヴィシュネヴェーツキイは無線電信を繰り返した。返答はなかった。叛乱艦は速力を増し、艦隊に迫ってきた。そして、「全船員からなる協議会を本艦へ送るよう懇願する」とする打電がトリー・スヴャチーチェリャに対してなされた。どうやら、叛乱者たちは旗艦から代表を送るよう要請しつつ、その水兵たちと直接にコンタクトを取って蜂起へ取り込もうと企図しているようであった。 接近するポチョムキンを眺めやりながら、ヴィシュネヴェーツキイは戦闘警報を鳴らすよう命じた。そして、ポチョムキンから距離をとりながら、彼は8点左へ回って12 knまで速度を上げるよう指示した。8時45分、トリー・スヴャチーチェリャは公海上へ出た。8時58分、ポチョムキンは艦隊を追跡するのをやめ、停泊地へ戻った。 ヴィシュネヴェーツキイは、自艦の水兵が蜂起へ迎合することを強く危惧していた。連合艦隊の士官たちは、自分たちの部下をほとんど信用していなかった。チュフニーンによれば、このときトリー・スヴャチーチェリャの士官室では、いざ叛乱が起こった際にどう振舞うべきか、武器を用いるべきか降参するべきか、大声で討議されていた。まして、敵に譲るべきだとする意見が強く、自分自身の手足を縛らせてもよい、なぜなら抵抗したところで無駄だからだ、どうせ殺される、という傾向さえ見られたという。ヴィシュネヴェーツキイの敗走は、ポチョムキンの叛乱兵たちに自分らの軍事的政治的力の強さを再確認させ、その士気を大いに高めることになった。
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