掃共戦と中独合作とは? わかりやすく解説

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掃共戦と中独合作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 13:52 UTC 版)

第一次国共内戦」の記事における「掃共戦と中独合作」の解説

蔣介石共産党を「共匪」と呼び1930年12月第一次囲剿作戦から、5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開した1931年4月から5月まで第二次囲剿作戦7月から9月まで第三次囲剿作戦を行うが、いずれも失敗した。このときに軍事顧問団団長ゲオルク・ヴェッツェル作戦助言をしていた。 1931年12月2573旅旅長董振堂、2574旅旅長季振同らの指揮で、国民党軍26路軍は、中共側に寝返り中国工農紅軍紅5軍団改編された (寧都蜂起)。 5月汪兆銘らが広東国民政府樹立し6月中村大尉事件7月万宝山事件起きた9月満州事変勃発日本関東軍満州地域一帯掌握した1932年1月より2月にかけて、第一次上海事変起き3月1日満州国建国された。これを受けて南京国民政府統治区域でも全国的に一致抗日要求する世論高まったが、蔣は抗日より中国共産党掃討が大事として掃討作戦優先し強化した。つまり蔣介石日本に対して宥和的な姿勢臨みつつ、共産党に対して激し攻撃加えた詳細は「中独合作」を参照 日本軍動きによって、第四次掃共戦は同年5月へと延期され、すでに6月には15兵力共産党中央部包囲した。しかし共産党遊撃戦を展開、1933年4月には蔣介石撤退した5月には、ドイツの元陸軍参謀総長ハンス・フォン・ゼークトがヴェッツェルの招き上海に赴き、経済・軍事に関して蔣介石の上顧問となったゼークトは「日本一国だけを敵とし、他の国とは親善政策を取ること」とも蔣介石進言し 、「いまもっとも中国がやるべきは、中国軍に対して日本への敵がい心を養うことだ」とも提案した。これをうけて蔣介石は、秘密警察組織である藍衣社による対日敵視政策をとるようになるが、しかし、蔣介石対日戦よりも対共戦を優先させた。 1933年夏、ドイツ軍顧問団作戦参加し包囲網トーチカ建造とを組み合わせた戦術を練る。10月16日第五次掃共戦が開始蔣介石80兵力投入し、またトーチカ3000個も築造された。 1934年1月22日共産党会議において、毛沢東指導者辞任と張聞天の就任決定毛沢東遊撃戦に代わって、ドイツ出身ソ連軍人で、コミンテルンからの指示三年わたって共産党指揮していたオットー・ブラウンの提唱する陣地戦へと切り替えた。これは共産党軍攻撃拠点トーチカ設け、敵をトーチカから誘い出し突撃する作戦で、短促突撃名付けられた。 1933年10月16日蔣介石第五次囲剿作戦開始兵力80共産15攻撃した国民党軍は翌1934年4月28日共産軍から広昌を、5月16日建寧8月31日に@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}駅前[どこ?]を、10月石城興国奪回し共産党壊滅寸前の状態に追い込まれた。10月14日から中国共産党長征始まった1934年1月には、中国内のドイツ軍産業統括する「Handelsgesellschaft fur industrielle Produkte」(工業製品営利会社、ハプロ)がベルリン設立され同年4月には、ゼークト大将はヴェッツェル中将に代わって軍事顧問団団長就任。さらに中国軍委員会の総顧問就任しドイツ武器装備した二十師団形成教導総隊、中央士官学校陸軍大学校化学戦学校憲兵訓練学校防空学校などを南京設立していく。また同年4月広昌共産党トーチカは、蔣介石によって攻略され、共産党軍4000人の戦死者を出す。 1934年8月23日、ハプロと中国との間で、対等条約である「中国稀少資源及びドイツ農業工業製品交換条約」が調印され国民政府は、ドイツ製品とその開発支援交換中国産の軍需資源の提供を約束した国民政府は、中国共産党との内戦軍事費増大して財政赤字膨らんでおり、外国からの借款難し状況だったので、この物々交換中国ドイツ双方利益もたらした同年10月14日共産党軍は、瑞金から脱出したが、蔣介石追撃され共産党は65000の兵士失い、35000兵までに減少した第五次掃共戦は、国民党圧勝であった共産党西部奥地ソ連国境に近い延安逃れた共産党言い方では長征)。 1936年2月17日、突然、中共軍山西省内に侵入し3分の1占領国民革命軍中央軍7個師、商震軍2個師が派遣されると、5月5日に回師宣言(撤退)をして引き揚げた。3月12日ソ連外蒙古相互援助協定締結外蒙古との軍事同盟固めた4月9日張学良は、東北軍中国共産軍よりも対日戦望んでいたことを背景周恩来秘密会談を行い中国内戦停止合意した

※この「掃共戦と中独合作」の解説は、「第一次国共内戦」の解説の一部です。
「掃共戦と中独合作」を含む「第一次国共内戦」の記事については、「第一次国共内戦」の概要を参照ください。

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