掃共戦と中独合作
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蔣介石は共産党を「共匪」と呼び、1930年12月の第一次囲剿作戦から、5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開した。1931年4月から5月まで第二次囲剿作戦、7月から9月まで第三次囲剿作戦を行うが、いずれも失敗した。このときに軍事顧問団団長のゲオルク・ヴェッツェルが作戦助言をしていた。 1931年12月、25師73旅旅長董振堂、25師74旅旅長季振同らの指揮で、国民党軍の26路軍は、中共側に寝返り中国工農紅軍紅5軍団に改編された (寧都蜂起)。 5月、汪兆銘らが広東国民政府を樹立し、6月に 中村大尉事件、7月に 万宝山事件が起きた。9月に満州事変が勃発。日本の関東軍が満州地域一帯を掌握した。1932年1月より2月にかけて、第一次上海事変が起き、3月1日に満州国が建国された。これを受けて、南京国民政府の統治区域でも全国的に一致抗日を要求する世論が高まったが、蔣は抗日より中国共産党の掃討が大事として掃討作戦を優先し、強化した。つまり蔣介石は日本に対しては宥和的な姿勢で臨みつつ、共産党に対して激しい攻撃を加えた。 詳細は「中独合作」を参照 日本軍の動きによって、第四次掃共戦は同年5月へと延期され、すでに6月には15万の兵力で共産党中央部を包囲した。しかし共産党は遊撃戦を展開、1933年4月には蔣介石は撤退した。5月には、ドイツの元陸軍参謀総長ハンス・フォン・ゼークトがヴェッツェルの招きで上海に赴き、経済・軍事に関して蔣介石の上級顧問となった。ゼークトは「日本一国だけを敵とし、他の国とは親善政策を取ること」とも蔣介石に進言し 、「いまもっとも中国がやるべきは、中国軍兵に対して、日本への敵がい心を養うことだ」とも提案した。これをうけて蔣介石は、秘密警察組織である藍衣社による対日敵視政策をとるようになるが、しかし、蔣介石は対日戦よりも対共戦を優先させた。 1933年夏、ドイツ軍事顧問団も作戦に参加し、包囲網とトーチカ建造とを組み合わせた戦術を練る。10月16日、第五次掃共戦が開始。蔣介石は80万の兵力を投入し、またトーチカは3000個も築造された。 1934年1月22日、共産党は会議において、毛沢東の指導者辞任と張聞天の就任を決定。毛沢東の遊撃戦に代わって、ドイツ出身のソ連軍人で、コミンテルンからの指示で三年にわたって共産党を指揮していたオットー・ブラウンの提唱する陣地戦へと切り替えた。これは共産党軍も攻撃拠点にトーチカを設け、敵をトーチカから誘い出し、突撃する作戦で、短促突撃と名付けられた。 1933年10月16日、蔣介石は第五次囲剿作戦を開始、兵力80万で共産軍15万を攻撃した。国民党軍は翌1934年4月28日、共産軍から広昌を、5月16日に建寧を8月31日に@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}駅前[どこ?]を、10月に石城、興国を奪回し、共産党は壊滅寸前の状態に追い込まれた。10月14日から中国共産党の長征が始まった。 1934年1月には、中国内のドイツ軍事産業を統括する「Handelsgesellschaft fur industrielle Produkte」(工業製品営利会社、ハプロ)がベルリンで設立され、同年4月には、ゼークト大将はヴェッツェル中将に代わって軍事顧問団団長に就任。さらに中国軍事委員会の総顧問に就任し、ドイツ製武器を装備した二十個師団の形成、教導総隊、中央士官学校、陸軍大学校、化学戦学校、憲兵訓練学校、防空学校などを南京に設立していく。また同年4月、広昌の共産党トーチカは、蔣介石によって攻略され、共産党軍は4000人の戦死者を出す。 1934年8月23日、ハプロと中国との間で、対等条約である「中国稀少資源及びドイツ農業・工業製品交換条約」が調印され、国民政府は、ドイツ製品とその開発支援と交換に中国産の軍需資源の提供を約束した。国民政府は、中国共産党との内戦で軍事費が増大して財政赤字が膨らんでおり、外国からの借款が難しい状況だったので、この物々交換は中国とドイツの双方に利益をもたらした。 同年10月14日、共産党軍は、瑞金から脱出したが、蔣介石に追撃され、共産党は65000の兵士を失い、35000兵までに減少した。第五次掃共戦は、国民党の圧勝であった。共産党は西部奥地ソ連国境に近い延安へ逃れた(共産党の言い方では長征)。 1936年2月17日、突然、中共軍が山西省内に侵入し3分の1を占領、国民革命軍中央軍7個師、商震軍2個師が派遣されると、5月5日に回師宣言(撤退)をして引き揚げた。3月12日、ソ連が外蒙古と相互援助協定を締結、外蒙古との軍事同盟を固めた。4月9日、張学良は、東北軍が中国共産軍よりも対日戦を望んでいたことを背景に周恩来と秘密会談を行い、中国内戦の停止に合意した。
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