捻軍起義とは? わかりやすく解説

捻軍

(捻軍起義 から転送)

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六安の戦い
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茌平南鎮の戦い

捻軍(ねんぐん)は、太平天国の乱と同時期にに反抗した華北の武装勢力。清国側は捻匪捻賊と呼ぶ。捻乱とも言う。「捻」とは「ひねる」「こよる」という意味の語であるが、淮河北方の方言では「一本一本の糸をよりあげる」ことから転じて「人々の集まり」を示す。捻軍の起源は「捻子」という遊民の集団で安徽省河南省一帯に広がっていった。

捻軍起義

咸豊2年(1852年)の飢饉で加入者が増加すると、18名の首領が会合し、張楽行を盟主として活動が活発化した。咸豊3年(1853年)、太平天国が北伐を開始すると、安徽省・河南省の捻軍はこれに呼応していたるところで蜂起した。

咸豊5年(1855年)、黄河の堤防が決壊すると、山東省・安徽省北部・江蘇省北部の多くの民衆が難民となり、捻軍に加入した。捻軍は亳州で張楽行を「大漢盟主」とし、黄・白・藍・黒・紅の「五旗軍制」を制定し、雉河集を根拠地とした。数十万人が集まり、淮河の南北はみな捻軍という状況であった。咸豊6年(1856年)、交通の要衝の潁州三河尖を占領し、太平天国の陳玉成と緊密な連携を持つこととなった。

咸豊8年(1858年)から同治元年(1862年)まで捻軍は山東・江蘇・安徽を転戦する。これに対し清朝はモンゴル族の勇将センゲリンチン(僧格林沁)を投入、同治2年(1863年)にセンゲリンチンは雉河集を攻略し、張楽行を捕らえ処刑した。しかし同治3年(1864年)に太平天国が滅亡すると、太平天国の遵王頼文光は張楽行の甥の張宗禹ら捻軍の残存勢力と連合して組織の改編を行った。頼文光は捻軍の部将に太平天国の王号を授け、10万人の騎兵を擁するようになった。

同治4年(1865年)、捻軍は山東省の曹州でセンゲリンチンの騎兵部隊を壊滅させ(高楼寨の戦い)、英雄を失った清朝を震え上がらせた。清朝は曽国藩に捻軍の討伐を命じ、曽国藩は湘軍淮軍8万を率いてあたったが、捻軍は包囲を突破して湖北省に入ったため、曽国藩は欽差大臣を解任され、李鴻章に代わった。

同治5年(1866年)、捻軍は東西に分かれ、東捻軍を頼文光・任柱李蘊泰が指揮し、西捻軍は張宗禹・邱遠才張禹爵が指揮して陝西省に入った。東捻軍は山東省で李鴻章に包囲され同治6年(1867年)の尹隆河の戦いで大きな打撃を受けた。西捻軍は左宗棠と戦っていたが、東捻軍の救援に向かった。同治7年(1868年)、東捻軍は山東省の膠萊河で全滅し頼文光は捕えられた。西捻軍は保定天津に迫ったが、大雨で騎兵が動けず壊滅し、張宗禹は行方不明となった(一説に投水自殺したといわれる)。

こうして十数年にわたって安徽・河南・山東・江蘇・湖北・陝西・山西直隷の8省を駆け巡った捻軍の戦いは終結したのである。

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捻軍起義

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捻軍」の記事における「捻軍起義」の解説

咸豊2年1852年)の飢饉加入者が増加すると、18名の首領会合し張楽行盟主として活動活発化した。咸豊3年1853年)、太平天国北伐開始すると、安徽省河南省捻軍はこれに呼応していたるところ蜂起した咸豊5年1855年)、黄河堤防決壊すると、山東省安徽省北部江蘇省北部多く民衆難民となり、捻軍加入した捻軍亳州張楽行を「大漢盟主」とし、黄・白黒・紅の「五旗軍制」を制定し、雉河集を根拠地とした。数十万人集まり淮河南北はみな捻軍という状況であった咸豊6年1856年)、交通の要衝潁州三河尖を占領し太平天国陳玉成緊密な連携を持つこととなった咸豊8年1858年)から同治元年1862年)まで捻軍山東江蘇安徽転戦する。これに対し清朝モンゴル族勇将センゲリンチン僧格林沁)を投入同治2年1863年)にセンゲリンチンは雉河集を攻略し張楽行捕らえ処刑した。しかし同治3年1864年)に太平天国滅亡すると、太平天国遵王頼文光張楽行の甥の張宗禹捻軍残存勢力連合して組織改編行った頼文光捻軍部将太平天国王号授け10万人の騎兵擁するようになった同治4年1865年)、捻軍山東省曹州センゲリンチン騎兵部隊壊滅させ(高楼寨の戦い)、英雄失った清朝震え上がらせた。清朝曽国藩捻軍討伐命じ曽国藩湘軍淮軍8率いてあたったが、捻軍包囲突破して湖北省入ったため、曽国藩欽差大臣解任され李鴻章に代わった。 同治5年1866年)、捻軍東西分かれ、東捻軍頼文光任柱李蘊泰指揮し、西捻軍張宗禹邱遠才張禹爵指揮して陝西省入った。東捻軍山東省李鴻章包囲され同治6年1867年)の尹隆河の戦い大きな打撃受けた。西捻軍左宗棠戦っていたが、東捻軍救援向かった同治7年1868年)、東捻軍山東省の膠萊河で全滅し頼文光は捕えられた。西捻軍保定天津迫ったが、大雨騎兵動け壊滅し張宗禹行方不明となった一説に投自殺したといわれる)。 こうして十数年にわたって安徽河南山東江蘇湖北陝西山西直隷の8省を駆け巡った捻軍戦い終結したのである

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