指御子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 16:56 UTC 版)
泰親は占術や天文密奏の分野において優れた才能を発揮するなど当代屈指の陰陽師となり、鳥羽法皇・後白河法皇の治天の君に仕えて後白河法皇のために毎月の泰山府君祭を行い、藤原頼長・兼実からも信頼されて摂関家にも奉仕した。頼長・兼実の日記である『台記』・『玉葉』には泰親がしばしば登場し、頼長は陰陽書によれば占いにおいて10のうち7当たれば「神」と称されるが、泰親は10のうち7・8を的中させ他人には真似が出来ないこと、占道(占いの道)は未だに地に墜ちず人(人材)が存在する、と泰親を高く評価している。日記・説話集・軍記物などにおいて、泰親に関する逸話が多く伝えられており、久安4年(1148年)の内裏火災や承安2年(1172年)の斎宮惇子内親王の急逝、治承3年(1179年)の政変、治承4年(1180年)の以仁王の挙兵などを予言したとされている。『平家物語』・『源平盛衰記』には泰親を「指御子(さすのみこ)」と称している。また、泰親の日記(『安倍泰親朝臣記』『天文変異記』)の一部(永万元年(1165年)から仁安元年(1166年))が現存しており、泰親および天文博士を継いだ次男業俊による天文異変の記録とその解釈、天文密奏の内容などが書きとめられており、当時の天文道の内容を知ることができる。 だが、その泰親の実力をもってしても、当主の相次ぐ死で一旦没落した安倍氏嫡流を再興することは困難を窮めた。泰親の時代、陰陽師は朝廷や院、公家から広く重用され、特に安倍氏と賀茂氏の陰陽師が登用されていたが、その中でも陰陽寮の官職に就いたり、重要な儀式を任される者は限定されていたために、そうした社会的な地位を巡る一族内部の争いが激しかった。特に安倍氏が陰陽道と共に家職としていた天文道の主要部分を占める天文変異に基づく占術は個人の解釈・判断によるところが大きく、世代が下るにつれて安倍氏のそれぞれの家の中で独自の見解・解釈が生み出され、別の家との対立を引き起こした(これは一族内部の対立を抱えながらも暦道の主要部分を占める具注暦の作成を共同作業で行う必要上、一定の求心力が働いていた賀茂氏の内情と大きく異なる)。特に前述の安倍晴道を祖とする「晴道党」、天文変異の解釈が高く評価されていた安倍宗明・広賢父子を祖とする「宗明流」は、泰親の属する嫡流(「泰親流」)と合い並び立つ存在となっていた。一方、泰親は陰陽寮の次官である陰陽助にまで進んでいたが、長官である陰陽頭には賀茂氏嫡流の賀茂在憲が久しくその地位を占め続けていた。こうした状況を打破するために泰親は様々な手段を打った。まず、事あるたびに安倍氏他流および賀茂氏の説に対して批判を行った。康治2年(1143年)、藤原頼長の子菖蒲丸の着袴の日時について出された賀茂憲栄の勘文に泰親が異論を挟み、頼長の面前で憲栄を論破して嘲笑した。更に九条兼実に対して、宗明流の安倍広賢・信業親子が天文異変の相論を起こして怪死し、晴道党の安倍晴道は藤原頼長の生前に彗星に関して誤った解釈を行って面目を失ったことなどを挙げて他流の批判を繰り広げている。続いて陰陽助を辞任して、代わりに長男・季弘を権陰陽博士に、次男・業俊を権天文博士に任ぜられた(譲任)。代わりに泰親は大膳権大夫に任ぜられた。もっとも、官職としては陰陽寮を離れたものの天文密奏者としての資格はそのままであり、大膳(権)大夫は安倍氏陰陽道の祖である安倍晴明が務めたことがある官職で泰親が安倍氏嫡流であることを示すものであった。更に三男・泰茂も天文密奏の資格が与えられている。泰親は陰陽道・天文道の知識・技術に加えて数々の奉仕の代償として得た荘園の所職を3子に分け与えて嫡流の将来にわたる継続と再興の基礎としようとしたのである。寿永元年(1182年)4月、泰親はようやく陰陽頭に任ぜられたが、翌年寿永2年(1183年)1月には記録上から姿を消し、12月には賀茂宣賢が次の陰陽頭に就任している。安倍氏の記録では同年3月20日に74歳で死去したとされており、寿永2年に没したのは事実であると考えられている。
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