指揮の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 18:29 UTC 版)
「ビックスバーグの包囲戦」の記事における「指揮の変化」の解説
この包囲戦中にグラントが採った行動の一つとして長引くライバル関係の決着があった。5月30日、マクラーナンド将軍は自画自賛のメモをその部下宛に書き、間もなく得られる勝利は大いに自分の功績だと主張した。グラントは6ヶ月間というもの、この方面作戦の初期、アーカンソー・ポストの戦い頃に衝突して以来、マクラーナンドが口を滑らすのを待っていた。1863年1月にマクラーナンドを解任する許可を得ていたが、明確な挑発を待っていた。グラントは遂に6月18日にマクラーナンドを解任した。グラントが念入りに事を運んだので、マクラーナンドは頼る伝もなく軍隊を離れた。マクラーナンドの第13軍団はハッチー橋の戦いで受けた傷から快復したエドワード・オード少将に渡された。1864年5月、マクラーナンドは遠くテキサス州の部隊指揮で復活した。 もう一つの指揮官変更は6月22日に起こった。ペンバートン軍を前にすることに加えて、グラントは後方にいるジョセフ・ジョンストン軍のことも心配しなければならなかった。グラントはビッグブラック川橋に1個師団を置き、もう一つの師団は遠く北のメカニクスバーグまで偵察させ、どちらも自軍を遮蔽させるように行動させた。6月10日までに、ジョン・G・パーク少将の第9軍団はグラントの指揮下に移された。この軍団は、キャントンで軍を集めているジョンストンが包囲戦を妨害しないようにする特別任務の中核になった。シャーマンがこの任務に宛てられ、フレデリック・スティール准将が第15軍団を引き継いだ。ジョンストン軍は遂にペンバートン軍解放のために動き始め、7月1日にビッグブラック川に到達したが、シャーマン軍との困難になりそうな対決をビックスバーグ要塞に間に合わないほど先延ばしして、結局はジャクソンに後退した。
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