指揮の混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/13 16:46 UTC 版)
ヴィーデルはマドリードとバイヨンヌからの新しい指令を持ってきた。デュポン軍にカディスへの進軍を止め、北東の山脈へ撤退すること、サラゴサとバレンシアが投降した後に派遣される予定の援軍を待つ間にスペイン軍のアンダルシアにおける動きを偵察すること、という2つの命令だった。前者は実質デュポン軍の行動の追認だったが、後者はサラゴサとバレンシアを落とせなかったため援軍はいつまでも来なかった。モンセー元帥との連絡が一時つかなかったのち、彼がバレンシアで負けたことが明らかになった。セルヴェリョン伯(スペイン語版)率いる1万7千のスペイン軍はモンセー軍に1,000人の損害を与えて撃退したのであった。これでモンセー軍が西のバレンシアからグラナダへ移動してデュポンとともに翼包囲を行う作戦は水の泡となった。アラゴンもサラゴサが死ぬまで闘うと称してフランスの度重なる攻撃を全て撃退した。一方のサヴァリはジョセフのマドリード入城を準備して、散らばったフランス軍をマドリードの治安維持に呼び戻した。デュポン軍はベシエールの北における作戦が失敗してスペイン軍が辺りに現れるとすぐ馳せてマドリードを救援する予定だった。 しかし、デュポンのアンダルシア遠征は取り消されなかった。サヴァリが日付を明示せずに援軍の派遣を引き続き確約するという不明瞭な指示を出した一方、ナポレオンはアンドゥハルの放棄すら視野に入れていた。明確な指示がないまま、デュポンはシエラ・モレナ山脈の隘路への撤退よりグアダルキビール川畔の保持を優先し、バイレン(英語版)とハエンに攻撃を仕掛けた。ナポレオンも特に反対する様子はなく、「たとえ痛手を負っても、[...]山脈を越えて帰ってくればよい」と軽く書いた。
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指揮の混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 16:16 UTC 版)
東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノスは、普通の軍隊でない「軍隊」の予想外の到来に対して困り果てた。大軍に対する食料の負担も重く、治安上の不安も増したため、皇帝は3万人余りの軍勢をボスポラス海峡の対岸へ渡らせることにし、8月6日に一行は小アジア側に到着した。皇帝は一行がテュルクにより皆殺しされるのを承知の上で道案内もつけずに十字軍を小アジアに送り出したのか、あるいは皇帝は制止したにもかかわらず一行が行進を続けることを言い張ったのか、現在に至るまで論争がある。どちらにせよ皇帝はピエールに対し、民衆十字軍よりもはるかに精強なテュルク軍との交戦はしないよう、また西欧からの諸侯らによる十字軍本隊を待つよう警告したことが記録に残っている。 ピエールはゴーティエ指揮下のフランス人たちや同時期到着したイタリア人十字軍部隊と合流した。小アジアで一行は農村を襲いながらマルマラ海東奥のニコメディアの町に着いたが、ここで一行の中のドイツ人・イタリア人対フランス人の口論が起こった。ピエールの主導権は失われ、ドイツ人とイタリア人はフランス人たちから別れてレイナルド(Rainald)というイタリア人を新たな指導者に選び、一方フランス人らの指揮はジェフロワ・ビュレル(Geoffrey Burel)という人物がとった。 ピエールが皇帝から、諸侯らによる十字軍本隊を待つようにとの指図を受けていたにもかかわらず、ピエールの指導を離れた十字軍は諸侯らを待たずにばらばらになりながら小アジアを大胆に進んでゆき、ついにフランス人らはルーム・セルジューク朝の首都ニカイア付近に達し、近郊のギリシャ人やトルコ人の村を略奪した。一方ドイツ人ら6千人はニカイアの東へ歩いて4日のクセリゴルドン(英語版)へと進撃して9月18日にこの町を陥落させ、周囲の略奪の拠点とした。 これに対し、ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン1世は攻城戦のために軍を送り、9月21日から攻囲戦に入った。クセリゴルドンへの水の供給は絶たれ、十字軍の兵たちは喉の渇きでロバの血や自らの尿を飲むほどに苦しんでおり、9月29日にクセリゴルドンはあっけなく奪還された。捕虜となった兵らのうちイスラムへ改宗した者らはペルシャ東部のホラーサーンへ送られ、改宗を拒んだ残りは殺された。
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