抜本再編
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1982年(昭和57年)4月、市の公営企業等調査審議会において抜本的な路線再編成を行うべきとの意見があり、同年から1983年(昭和58年)の2年間で再編成計画をまとめた。1981年(昭和56年)度に行ったアンケート調査では、苫小牧環状線から錦岡に至る鉄北西部地区で便数等の不満が見られたが、他都市と比較して不満度は低いことからいかにして現行水準を維持するかが検討課題となった。1982年(昭和57年)は乗降人員調査が行われ、これらを元に計画がまとめられた。短期計画は路線の部分的な変更で、苫小牧環状線を中心とした運行経路を利用者増が見込まれる町内への乗り入れ。長期計画は西部地区に運行拠点を設置し大規模な路線再編成を行うものであった。 1990年(平成2年)12月24日、大幅な路線再編を行った。市西部の錦西ニュータウンに営業所を設置。住宅から5 - 6分でバスに乗れるようにと停留所を30箇所増やし、苫小牧駅を境として東西に点在する高校や公共施設を直接結ぶ路線の開設等が行われ、これまでの29路線・44系統・605便が23路線・32系統・549便に圧縮された。西部に運行拠点がなかったことにより総回送距離が約900 kmにもなっていたが、約540 kmに低減され運行効率向上に繋がった。錦西営業所開設式典では市長が「市営バス40年の中で最大の危機」と厳しい状況の報告とともに路線改廃に理解を求めた。1991年(平成3年)2月より再編後全路線で大掛かりな利用調査が行われ、1日あたりの平均利用者は30,194人となり利用者減少は落ち着いてきていることがわかった。利用者の多い路線は永福(三条)交通部線、鉄北北口線、日新(国道)交通部線、澄川錦岡線の順で、東西地域を直通する路線が利用を増やした。また、利用者アンケートは満足度が全般的に向上しており、この路線再編が効果を発揮していることが裏付けられた。 乗客数は1991年(平成3年)度に1千万人の大台を割り込んだ。その後は減少幅が縮小し再編効果により歯止めがかかったかのようの思われたが、1994年(平成6年)度は60万人の大幅減少となった。週休2日制の浸透、自転車通学の増加、モータリゼーションの更なる進行が要因で、1997年(平成9年)度には850万人を割り込んだ。1998年(平成10年)4月1日の苫小牧駒澤大学開学では乗客増加が見込まれることから、近隣を通る路線を徹底的に駒澤大学向けに変更する「駒大シフト」を行ったが効果は現れず、乗客減少に歯止めをかけることはできなかった。同年度より車体全面広告を開始するなど増収を図った一方、市営バス会計審査意見書には、バスカードシステムを活用し効率的な運行による乗客の確保や経営改善に一層の努力を期待するとの厳しい意見が付された。 2002年(平成14年)に予定されるバス事業の原則自由化では民間事業者との競争激化が予想される貸切バス事業は段階的に縮小され、新千歳空港や苫小牧港で観光客を受けて北海道内各地を巡る観光貸切では1996年(平成8年)よりバスガイドを派遣業者からの派遣に切り替えた後、2000年(平成12年)度をもって廃止された。以降の貸切バスは一般団体の近隣輸送を行う一般貸切と企業との契約で従業員輸送等を行う特定貸切となり、一般・特定とも黒字を確保している。路線バス事業は苫小牧市内の黒字路線に道南バスとあつまバスが参入の意向を示したことからこのままでは経営健全化が困難になることが予測され、市営バスはどう対処すべきか問われることとなった。
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