成立起源神話・反響
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「ボヴァリー夫人」の記事における「成立起源神話・反響」の解説
『ボヴァリー夫人』は、35歳となっていたフローベールが公に発表した事実上のデビュー作である。習作時代にはロマン主義文学に熱狂していたフローベールだったが、友人マクシム・デュ・カンの『文学的回想』によれば、1849年9月に完成させた『聖アントワーヌの誘惑(第一稿)』をフローベールがデュ・カンとブイエの前で朗読した際、過剰な抒情性や比喩表現の仰々しさを2人は感じ、「ぼくたちは、そいつを火にくべてしまうべきだと思うよ。もう二度と話題にしてはいけないよ」とブイエはフローベールに言った。 ブイエは、気落ちするフローベールに、実際に起こっていたスキャンダルな事件(フローベールの父の弟子で軍医のドラマールとその後妻の若妻の自殺事件)を題材にしたらと提案した。デュ・カンと一緒に1849年10月から1851年6月までエジプト、ベイルート、パレスチナ、エルサレム、ダマスカス、イタリアに旅したフローベールは、1851年9月から『ボヴァリー夫人』の執筆に取り組んだ。4年半の執筆の間、当時の恋人のルイーズ・コレと恋愛中であったフローベールは、彼女に作品の推敲や進行状況を手紙で伝えている。 そして推敲を重ね、1856年4月にほぼ完成すると、友人デュ・カンは自身が編集人をしている雑誌『パリ評論』への掲載をフローベールに依頼し、同年10月から12月まで連載された。訴追を怖れたデュ・カンの懇願により一部分は削除されていたものの、「公衆の道徳および宗教に対する侮辱」罪として1857年1月に告訴されるが、2月7日に無罪となった(「ボヴァリー裁判」)。 裁判沙汰が逆に宣伝となり、4月に本が発売されると飛ぶように売れてベストセラーとなったが、当時の雑誌・新聞の書評は厳しいものが多かった。『ル・モニトゥール』ではサント・ブーヴが、幾分厳しい評価をした後でフローベールの文章を外科医のメスに喩えている。ボードレールは『ラルティスト』に好意的な評を書き、「エンマはほとんど男であり、著者は(おそらく無意識のうちに)あらゆる男性的な資質でこの女性を飾ったのだ」と、エマに作者自身が投影されていることをいち早く見抜いて作者フローベールを喜ばせた。 ボードレールの理解のように、エマの取り付かれている様々なロマン派的な空想や憧れには作者自身の資質がそのまま反映されていると見ることもでき、フローベール自身が「ボヴァリー夫人は私なのです」と言った有名な逸話が伝説のようになっている。このエマの人物造形は、のちに理想と現実の相違に悩む様を指す「ボヴァリスム」という言葉も生んだ。 作品の舞台の一つルーアンは作者自身の生まれ故郷であり、エマが移り住む架空の村ヨアンヴィル・ラベーもルーアン近郊の村リーがモデルとされている。小説の発表以来モデルの詮索が後を絶たず、エマやその他の登場人物についても様々な推測が成されてきた。上記の友人の1人であり掲載誌『パリ評論』編集人のマクシム・デュ・カンは、フローベールの没後間もなく刊行された『文学的回想』にて、医師であったフローベールの父の弟子である軍医ドラマールとその後妻の若妻(ただし著書では間違って「ドローネー」となっている)が小説のモデルであると証言している。 リー村に開業した軍医ウージェーヌ・ドラマールは、年上の妻に先立たれた後再婚したが、その若妻は他の男との情事に走ったうえに借金を重ねて服毒自殺、夫も後を追って自殺している。デュ・カンによれば、『聖アントワーヌの誘惑』朗読の際にブイエが、この事件を題材にしてはどうかとフローベールに提言し、その後にデュ・カンとフローベールが2人で行ったエジプト旅行でナイル川の瀑布を見学している際、フローベールが主人公の名を思いつき、1850年3月に「エウレカ!(見つけた!)」と叫んだとされる。 しかし、『聖アントワーヌの誘惑』朗読の時期には、まだドラマールが生存していたことが判明しており、フローベールの書簡類と照らし合わせると、6月のブイエ宛の手紙で、「僕には草案も着想も計画もない」と述べているなど矛盾した点も多く、近年ではデュ・カンの証言自体の信憑性に疑問が呈されている。
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