建物来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 13:49 UTC 版)
写真中央の高い方の建物が福屋。 1946年 本館は1936年(昭和11年)5月着工、1938年(昭和13年)4月竣工。設計は渡辺仁、施工は藤田組(現フジタ)。竣工当時は鉄骨鉄筋コンクリート構造地上8階地下2階、建物面積延3,322坪。当時としては珍しく全舘冷暖房設備され、外装は淡黄色のテラコッタを貼るなど、豪華な建物で「白亜の殿堂」と持てはやされた。 太平洋戦争に入ると堅牢な建物のため大日本帝国陸軍に接収され売り場は縮小、建物の殆どが陸軍や国の出先機関で占めるようになった。戦争末期には、外面全体に空襲対策として黒褐色のペンキで塗られている。以下、当時入っていた主な機関である 8階 - 福屋事務所 7階 - 逓信省広島貯金支局分室、福屋店舗中2階 - 福屋店舗 6階 - 運輸通信省海運局 5階 - 不明 4階 - 不明 3階 - 不明 2階 - 逓信省西部逓信総局(当時開設準備中) 1階 - 中国地方総監府軍需監理局 B1階 - 広島県食料営団経営雑炊食堂 B2階 - 逓信省広島中央電話局電話処置局 1945年(昭和20年)8月6日被爆、爆心地から約710mに位置した。爆風と熱風により窓は吹き飛ばされ外郭を残して内部全焼した。従業員の被爆死は31人、うち店内3人。同月8日から臨時野戦病院として、同月17日から約1ヶ月間2・3階が市により臨時伝染病病院(当初原爆症は赤痢だと勘違いされていた)として使用された。終戦後、2階はGHQにより接収された。 被爆前の八丁堀周辺。米軍撮影。横断する道路が相生通りであり、福屋は写真中央下の太い道の十字路にあるビル。 被爆後の八丁堀周辺。 1988年国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。写真中央付近が八丁堀交差点。なお米軍撮影写真に合わせ傾けている。 同年10月頃から復興開始し、翌1946年(昭和21年)元旦から1階の一区画で「立ち飲み屋」を開店し営業再開した。同年2月には1階全部を業者に賃貸し、食料品・仏壇・陶器などを扱う業者が開業した。 1950年(昭和25年)進駐軍接収解除、1953年(昭和28年)6月全面復旧、1956年(昭和31年)10月第1次増床、1964年(昭和39年)10月第2次増床、1972年(昭和47年)9月に以前あった富士銀行の敷地を使い第3次増改修工事が行われ、外装のテラコッタも復元された。被爆したテラコッタの一部は、現在道路向かいの福屋別館に保存されている。 1974年(昭和49年)本館第4次増床工事(東館が開館)。2008年(平成20年)9月に南館が開館し、現在の地上12階地下3階の建物となった。 現在、八丁堀交差点を挟んだ対面に、市により原爆被災説明板が設置されている。
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