展開した各店舗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/03 18:29 UTC 版)
「ジェイトリップバー」の記事における「展開した各店舗」の解説
それぞれの店舗について、以下に示す。 J TRIP BAR 六Jと呼ばれた店舗である。 1984年に溜池で開店したが、1986年5月に六本木飯倉片町近くに移転。日比野アートを前面に出した前衛的な雰囲気で、ダンススペースはないバーとしての設計だった。当初は高感度な業界人が多く、ノリのいい曲がかかると座席の間の通路で踊りだすようなスタイルだったが、当時大流行したディスコの麻布十番、マハラジャが深夜営業ができず0時過ぎには閉店していたため、踊り足りない若者が流れてくるようになり、金曜日・土曜日の深夜限定で入場料制にして曲を大音響で流す、いわゆるディスコスタイルを導入したところ、BARスタイルよりもディスコスタイルに客が来店するようになる。全盛期の店内は寿司詰め状態で、踊るというより体を揺らすといった程度の動きしかできないほどであったが、客は男女とも概ね飲酒によるトランス状態で、店内のいたるところで接吻を序の口とした性的接触が行われていたほどである。客足の衰えてきた時期に、入居ビルの建て替えが重なり閉店した。 J TRIP BAR NAEBA 苗Jと呼ばれた店舗である。 1986年12月、空前のスキーブームに沸く当時にあって、若者の憧れのスキー場として特に人気が高かった苗場スキー場のエリアにもJ TRIP BARを開店し、冬季だけの季節営業をしていた。系列の焼肉レストランと隣接してコンクリート打放しの建物を建て、日比野アートに本格的なJ TRIP BARをそのまま大きくして持って来たようなしつらえだった。全盛期は平日休日を問わず連日着飾った若者たちで満員となり、それまでのスキー場のローカルなディスコとは全く異なる、東京のディスコ文化そのものであった。スキーをしない人ですらJ TRIP BARに行くために苗場に行くという現象まで見られ、苗場の夜の町におしゃれな若者が大挙集うという伝説的な成功を収めた。 J TRIP BRA DANCE HALL SHIBYA 渋Jと呼ばれた店舗である。 1987年5月、J TRIP BARのディスコスタイルの大盛況を踏まえ、ダンススペースをしつらえた、常時ディスコスタイルの渋谷店を開店した。ディスコ全盛期の中、あえてディスコという記述や紹介を用いずにダンスホールとうたい、日比野アートも取り込んでJ TRIP BARブランドの独自性を継承していた。当時の渋谷のディスコは、高校生を含むハイティーンの、いわば子供の溜り場という位置づけに見られていて、大学生以上はもっぱら六本木界隈のディスコに行くのが主流であったため、渋谷でのJ TRIP BARの開店を危惧する声もあった。ところが蓋を開けてみると、開店に際しては早い時間帯にも関わらず、数千人の大学生が行列をなすほどの人気となり、開店後もしばらくはこの人気が継続して、平日も含めて連日長い入店待ちの行列ができるほどであった。ただし、J TRIP BARの異常なトランス状態とは区別化し、“六Jは乱れる処”・“渋Jは踊る場所”という暗黙の定義づけがなされていた。VIP席には連日必ずといっていいほど芸能人の姿が見られ、ダンススペースの大学生らと入り混じって踊るなど芸能人を身近に感じられる場所でもあった。間もなく大学生遊び系サークルが空前のブームになると、そのオピニオンリーダー的な層を顧客化し、彼らを主体としたサークル文化全盛の象徴的な場所となっていった。やがて彼らが社会人となって学生の世代交代が進み客足が衰え始めると、店舗を全面改装してJ TRIP BAR DANCE FACTORYとし1991年にリニューアルオープンするが、客足の衰退に効果は無かった。 J TRIP BAR ENDMAX エンドマックスと呼ばれた店舗である。 1990年、急速にディスコ文化がクラブ化していく中で、前衛的なクラブ文化をひらくべく、東麻布の一の橋交差点付近に開店する。それまでのJ TRIP BARの特徴であった日比野アートを廃し、色彩もほとんどない極めて無機質なコンクリートの箱に、桁違いの音響と照明の設備をしつらえたのが特徴である。あまりにも前衛的過ぎて、マニアックなクラブキッズのウケは良かったものの、それまでのディスコやクラブの大きな要素の一つである、男女の出会いの場というシーンの創造に至らず、また前年に芝浦に開店した超大箱のクラブのGOLDの大ヒットも影響し、大きな成功には結びつかなかった。 J TRIP BAR SPLASH PARTY SHONAN J TRIP海の家と呼ばれた店舗である。 当時最大規模の学生サークルの卒業生を採用し、そのサークルの後輩たちが主体となり運営する、夏季だけの海の家を1990年7月に江の島の片瀬西浜海岸に開店する。近年の海の家のクラブ化のはしりであった。当時の現地共同組合の規制は厳しく本格的なクラブ営業はできず、通常は海水浴客を対象とした、カリビアンミュージックをBGMにした、ウッドデッキで床あげされたリゾートテイストの飲食所、シャワー所であったが、営業時間後にはJ TRIP BARの常連たちが連日のようにPARTYを開き、J TRIP BRA DANCE HALL SHIBYA にて録音された音楽をBGMに盛り上がっていたが、開店初年度は記録的な冷夏、翌年はシャワー設備の壊滅的な不具合などにより、経営的には成功していない。 J TRIP BAR WANNA DANCE ワナダンスと呼ばれた店舗である。 1992年4月、西麻布にあった系列の会員制ダンスホールJBアンダーグラウンドを、J TRIP BARブランドでリニューアルした。1989年開店の芝浦GOLDや、1991年開店のジュリアナ東京をはじめ、この頃は既に大箱全盛時代であった。比較的小規模を持ち味としたJ TRIPブランドが、再び若者たちのナイトシーンの伝説をつくるほどの大ヒットには至らなかったが、J TRIP BAR・J TRIP BRA DANCE HALL SHIBYAの全盛時代とはすっかり世代交代した、この時期の新しい若者世代にJ TRIP BARという名を新たに認知させた。
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