少女歌劇誕生と隆盛
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日本において女性だけの芸術が根付いた背景として、白拍子・女歌舞伎・女義太夫など、日本には古来から"男装した女性"による芸能が多数存在することが挙げられる。 明治時代末期、それまで隆盛を誇った民間音楽隊(軍楽隊を模した)は衰退し、少年少女による音楽隊が結成されていった。大正時代になると民主主義の台頭から女性・子供が着目されるようになり、新たな商業施設である百貨店は、子供を狙った事業を展開する。この流れの中で、1910年(明治43年)、三越少年音楽隊が結成されたのを皮切りに、百貨店の余興のため数多くの団体が結成された。1911年(明治44年)、白木屋少女音楽隊が結成され、店内で音楽演奏や演劇上演を行った。これが日本初の「少女歌劇」とされている。ただし、この前年1910年(明治43年)に、大阪の南地大和屋が技芸養成所を開設し、少女による演目を企画していたとされる。 そして、三越少年音楽隊に着想を得て、1914年(大正3年)、宝塚新温泉に宝塚少女歌劇が登場する。宝塚の成功の影響から、大正時代から昭和初期にかけては多くの少女歌劇団が各地に誕生して特に盛んであった。宝塚に倣い、電鉄が開発・経営する郊外の娯楽施設に併設する形で、少女歌劇団が多数結成されている。宝塚少女歌劇団(兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市))、そして1922年(大正11年)に誕生した松竹楽劇部から発展した大阪松竹少女歌劇団(OSSK・大阪市)と松竹少女歌劇団(SSK・東京市)によるものは日本の三大少女歌劇と呼ばれて大きな人気を獲得した。 誕生当初は、日舞・洋舞のほか「お伽歌劇」と呼ばれるおとぎ話(童話・民話)を題材にした歌付きの短い芝居が上演されていた。この時期の化粧は、伝統的な白塗りである。1926年に松竹楽劇部が和物レビュー「春のおどり」を上演するなど、初期には日舞をベースとした和物の比重が大きかった。 ところが、宝塚少女歌劇団が1927年(昭和2年)9月初演した「モン・パリ」(岸田辰彌作)は西洋風の化粧に露出の高い衣装・ラインダンス・階段を活用したフィナーレなど画期的な作品となり、少女歌劇に大きな転機をもたらした。この成功により洋物レビューが人気を博するようになり、翌1928年(昭和3年)には松竹楽劇部も独自に洋物レビューを確立させて追随した。同年、松竹楽劇部が東京公演を行い、これが東京松竹楽劇部創設のきっかけとなった。 さらに宝塚で1930年(昭和5年)8月初演のレビュー「パリゼット」(白井鐵造作)が「モン・パリ」以上のヒットとなって以来、華やかなレヴュー(ショー)やミュージカル(芝居)が演目の中心となっていった。 1930年(昭和5年)、宝塚の「パリゼット」にて本格的な男役が誕生し、他の団体も追随した。特に、SSKの水の江瀧子・オリエ津阪が同年のうちに短髪にし(断髪)、絶大な人気を集めて一世を風靡。宝塚では1932年(昭和7年)になって門田芦子が断髪した。さらに1930年代からは演目に恋愛が取り入れられるようになり、1934年(昭和9年)ごろには、中心ファン層が女学生(少女)へと変化した。 しかし、やがて来た災害や第二次世界大戦により多くの歌劇団が活動困難となった。戦後まで残ったのはほぼ三大少女歌劇のみとなった。これらの歌劇団は技能をより高度なものにするとともに、1940年代には名称から「少女」をはずし、宝塚少女歌劇団は宝塚歌劇団に、大阪松竹少女歌劇団は大阪松竹歌劇団(OSK)に、松竹少女歌劇団は松竹歌劇団(SKD)へと改名し、それぞれ独自に発展していった。
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