少女期及び若年期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 03:30 UTC 版)
「カロリーネ・フォン・ギュンダーローデ」の記事における「少女期及び若年期」の解説
父親の早期の死の後、一家は1786年にハーナウに下った。母親ルイーゼ・フォン・ギュンダーローデや二人の姉妹との緊密な関係の下、カロリーネは幼少期をかろうじて暮らして行った。カロリーネの幼少時代は母親と一緒に行った遺産を巡る裁判闘争によって特徴付けられている。 カロリーネは17歳でフランクフルト・アム・マインのクローンシュテット貴族女子修道会の「書記」になった。そこで「しとやかな生活態度」を身に付けるよう促されたのである。しかし、長い裾の黒い修道衣や白い襟や修道院の十字架の下には、束縛されない自由への要求がうごめいていた。 女子修道院での若いカロリーネには自分のことが囚人のように思えた。カロリーネはフランス革命に感動し、恋愛物語から生気を得た。この時期にして既に、カロリーネが一生をかけて取り組まなければならなかったテーマが素描されていたのである。そのテーマとは、幽閉状態と自由であり、愛と死であった。 カロリーネの最初の大恋愛はフリードリヒ・カール・フォン・サヴィニーとのものであった。サヴィニーは後にその時代で最も重要な法学者になり、「王座のロマン主義者」フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の大臣にもなった人物である。当時サヴィニーは法学生で、少女カロリーネをロマン派のグループに導いたのであった。「私は愛し、願い、信じ、再び希望する。おそらくはかつてよりも強く。」とこの19歳の少女は友人に告白している。サヴィニーは自分の恋人が詩を書いているとは予想していなかった。カロリーネには詩作を隠す十分な理由があった。「私たちが出会った王国は雲のように沈んで行った。私たちを隠された楽園に迎え入れるため自らを開いた雲のように。」ベッティーナ・フォン・アルニムは後にその著書「ギュンダーローデ」の中で二人に共通する時代について回想している。同じように知を渇望していたベッティーナとのこのような緊密な友好関係を、カロリーネは死の直前に急に中断してしまった。カロリーネの恋人であったフリードリヒ・クロイツァーがブレンターノ家を評価していなかったからである。 ギュンダーローデは生涯に渡って頭痛と目の痛みを訴え続けた。カロリーネの長期の視覚障害についての叙述は黒内障を患っていた可能性を示唆している。
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