少女期 - 結婚
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江戸時代から続く鍛冶屋の家系で、8人の兄弟姉妹の五女として誕生した。すぐに親戚の亀井家の養女となったが、養父が死去したために実家に戻った。学校の高等科を修了後、家業を手伝いながら、好きな芝居や歌舞伎を楽しんだ。当時は横浜歌舞伎座が実家の真裏にあり、実家の一部を歌舞伎座の大道具置き場として貸していた縁もあった。 戦後間もない1947年(昭和22年)、三吉演芸場の前身である銭湯兼演芸場の長男である本田貢と結婚した。結婚当日より重病の義母を看取り、空いた時間には銭湯の番台や演芸場の掃除に明け暮れた。本田家は夫の下に弟や妹が6人おり、さらに3人の子宝に恵まれて、大所帯で忙しく働いた。
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少女期 - 結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/27 20:14 UTC 版)
1827年(文政10年)に、仙台城で誕生した。当時は天災や凶作が続いた上に、誕生から間もなく父の伊達斉義が死去という不幸に見舞われたが、家は当時の大大名であり、深窓の姫君として城中で大切に育てられ、何不自由なく育った。幼少時より聡明で、芸事にも長け、思いやりにあふれる性格であった。周囲からも愛され、「お佑様がお通りになる」「お佑様がお風邪を召したそうだ」などと、人々の噂話にも頻繁に昇っていた。 1844年(天保15年)、17歳で分家の亘理伊達家・伊達邦実に嫁いだ。相次ぐ凶作のために、当時の仙台藩の財政は苦しく、嫁入り道具が作れないところであったが、兄の伊達慶邦は保子を非常に愛し、伊達家の歴代奥方の遺品、徳川家や近衛家の品など、歴代藩主夫人の嫁入り道具の中から保子が気に入ったものを持参した。 一男一女を産んだが、男子は早世。1859年(安政6年)に夫と死別し、落飾した。1人娘の豊子に、婿養子として伊達邦成を迎えた。宗家では邦成を他家に養子にする予定だったが、保子が反対して強引に亘理伊達家に迎え入れた。邦成が一人前の藩主になるまでは、保子が屋台骨の役目を務めた。保子は邦成から、実母同然に慕われ、亘理の人々からも敬愛された。
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