少女期 - 医学志願以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 14:45 UTC 版)
「高橋瑞子」の記事における「少女期 - 医学志願以前」の解説
三河国幡豆郡西尾(後の愛知県西尾市鶴ヶ崎町)で、中級武士である西尾藩藩士の家に誕生した。父は高名な漢学者とも言われ、和漢の学に造詣が深かったことで、瑞子は強い向学心を抱いて育った。幕末の動乱により、父は没落士族となり、生活は楽ではなかった。1862年(文久2年)、瑞子が9歳のときに父が病死し、母も間もなく死去した。 高橋家の家督は、長兄夫妻が継いだ。瑞子は兄たちが漢学を学んでいた影響で、自らも学問を望んだが、兄から「女に学問は不要」と希望を絶たれた。裁縫の教えを兄嫁に乞うたが、兄嫁に無視されたため、瑞子は既成の着物を解いて構造を研究し、自力で裁縫を身につけた。この頃より、他人に頼らず自力で道を突き進んでゆく性格は顕れていた。 1877年(明治10年)、東京の伯母から「養女に迎えたい」と乞われて上京したが、伯母の家ではすでに養子が迎えられており、結婚を前提とした話であった。伯母が財産家にもかかわらず吝嗇家で、瑞子にろくに食事を与えないなど虐待したことなどが理由で、結婚話は約1年で破綻し、瑞子は家を出た。 生活のため、ある家に手伝いとして住み込んだところ、その家の者の弟への嫁入りを勧められた。相手は小学校の教員であり、生活の上でも不安がないと思われたが、これも失敗して離婚した。この他に、車屋と同棲して飢えを凌いだ話なども伝えられている。後年に瑞子と親交(後述)を持つ吉岡彌生は、当時の瑞子の生活の窮状を、自著で以下の通り述べている。 女が働いて自活するといっても、仕立物や洗濯の内職で得られる収入はたかの知れたもので、高橋さんは、持っていた着物や道具を質に入れたり売り飛ばしたりして、どうやら飢えを凌いでいました。高橋さんが、車夫と一しょに住んでいたという噂は、──もしほんとうであったとしたら、恐らくこのどん底時代の出来事ではなかったでしょうか。──高橋さんの男まさりの性格や伝法肌のところには、よほど浮世の荒波を潜ってきた人でなければ見られないものがありましたから。 — 吉岡彌生、秋山聾三「瑞子二説」、秋山 1991, p. 70より引用
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