少女期 - 芸妓の道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/25 08:31 UTC 版)
北海道當別村(後の当別町)で、6人弟妹(1男5女)の長女として誕生した。1926年(大正15年)、みな子が7歳のとき、父が新事業を始めるために、一家を挙げて上京した。しかし人に騙されて全財産を失い、一家は貧乏生活を強いられることになった。 浅草に転居した後、近所の住人が置屋(芸者屋)の経営者の妹であり、その者の誘いで1930年(昭和5年)に年季奉公に出され、芸妓への道に入った。父親は心配し、吉原の貸座敷約10件を回って「吉原の芸妓が体を売らないのは本当か」と確認した。実際には、当時の吉原は隆盛を極めており、評判は高く、吉原で芸妓になるのは名誉なことだった。後年には吉原は遊女ばかりと印象を持つ者が増えたものの、江戸時代に官許と私営の遊廓は明確に区別されており、吉原は別格の存在であった。 当時の客の中には小唄や義太夫節を嗜む者もいた。芸が出来ないとなれば吉原の芸妓の名折れであったため、怒鳴られながら、太鼓、鼓、三味線、踊りなどの稽古に励んだ。新橋や赤坂では、芸はできなくても客のそばに座って酌をするだけで良く、ときには床を共にすることもあったが、花魁がいる吉原では色を売ることはご法度で、あくまでも芸が本分であったため、その分、芸妓になるための稽古は非常に厳しいものであった。 座敷に出るためには中学生以上でなければ当時の法律に抵触したが、年齢はまだ11歳であり、あと1年で小学校を卒業する必要があったため、昼間は稽古を習いつつ、18時から21時までを夜学で学ぶ生活であった。
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