少女期 - 学業の断念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:00 UTC 版)
「牛山喜久子」の記事における「少女期 - 学業の断念」の解説
長崎県佐世保市で、父が海軍大佐、母方の祖父が陸軍師団長という軍人家庭の柴岡家に生まれた。父は婚約時代から遠洋航海して日本国外の装飾品を妻に贈り、ミッションスクール出身の母は喜久子の幼少時からおやつに西洋菓子を手作りするなど、当時としては進歩的な家庭であった。父の転任に伴って神奈川に転居。1923年(大正12年)9月には関東大震災に遭ったが、母の気丈な振る舞いで避難でき、被災を逃れた。 日本女子大学在学中に、大正デモクラシーの風潮の影響を強く受け、「働く女性の子供を預かりたい」との考えで、保母を目指して児童心理学を学んだ。しかし1927年(昭和2年)、かつて自分たちを支えた母が電車事故に遭い、顔が歪むほどの顔面裂傷の重傷を負い、左腕も複雑骨折で自由を奪われた。喜久子は母の介護のために、学業を断念した。 喜久子はもともと着物より洋服を好み、身嗜みにも気を遣う性格であったために、母を介護しつつ、その顔の傷を隠すために髪型を工夫した。以前から髪をいじることが好きだったことや、当時は著名な美容家が脚光を浴びていたこともあって、次第に美容への興味が募り、後の喜久子の人生を決めることとなった。
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