三吉演芸場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/01 23:30 UTC 版)
| 三吉演芸場 |
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| 情報 | |
| 正式名称 | 三吉演芸場 |
| 旧名称 | 三吉館、貸席三吉 三吉劇場 三吉東映 |
| 完成 | 1998年 |
| 開館 | 1930年 |
| 客席数 | 185[1] |
| 用途 | 大衆演劇 |
| 所在地 | 〒232-0032 神奈川県横浜市南区万世町2-37 |
| 位置 | 北緯35度26分6秒 東経139度37分47.3秒 / 北緯35.43500度 東経139.629806度座標: 北緯35度26分6秒 東経139度37分47.3秒 / 北緯35.43500度 東経139.629806度 |
| 最寄駅 | 横浜市営地下鉄ブルーライン阪東橋駅から徒歩10分 |
| 最寄バス停 | 京浜急行バス・横浜市営バス三吉橋バス停より徒歩3分 |
| 外部リンク | miyoshiengeijo |
三吉演芸場(みよしえんげいじょう)は、神奈川県横浜市南区にある大衆演劇の劇場である。
歴史
1930年(昭和5年)、中村川に架かる三吉橋のたもとにあった銭湯「草津温泉」[注釈 1]の2階の休憩室が、素人による義太夫節や琵琶などの貸席として供されたのが三吉演芸場の始まりで、当時は「三吉館[2]」や「貸席三吉[3]」と呼ばれていた。1938年(昭和13年)ごろには大衆演劇が上演されるようになったが、第二次世界大戦により1943年(昭和18年)には閉鎖を余儀なくされた。横浜大空襲の戦火を免れた同館は、1950年(昭和25年)6月に「三吉劇場」と名を改め再開[4]。 1957年(昭和32年)1月には「三吉映画劇場[4]」として鉄筋造2階建て・272席を有する映画館に転向[5]。1961年(昭和36年)[3]からは「三吉東映[2]」の名で東映系作品も上映し、映画も芝居も楽しめる劇場として親しまれた。昭和40年代に入ると家庭のテレビの普及により観客が減少、経営難のため興業師は営業権を放棄し、1972年(昭和47年)12月をもって三吉映画劇場を閉鎖した[4]。
1973年(昭和48年)、二代目オーナー[6]となる本田玉江が劇場経営を引き継ぎ、同年12月より大衆演劇専門劇場として再出発した[4]。当初は客の入りは少なかったが、伊勢佐木町で人力車を走らせたり、中村川で船乗り込み[注釈 2]を行ったりして宣伝に努めた。近隣の真金町出身の噺家桂歌丸も、この頃から定期的に独演会を行った[8][9]。
1990年代に入り、娯楽の多様性による観客減少や建物の老朽化により廃業の危機に直面した。歌丸は「三吉演芸場を残す会」会長として尽力し、横浜橋通商店街や三吉橋通商店街の協力も得て2500万円の寄付が集まった。1996年(平成8年)から建替工事が行われ、1998年(平成10年)に新たな演芸場がオープンした[3]。上層階は、横浜市住宅供給公社による賃貸住宅「レ・シェーナ」となっている[10]。
2000年(平成12年)、母親の後を継ぎ本田博が四代目社長となる[11]。
2019年(令和元年)7月2日、前年に亡くなった桂歌丸の一周忌追善公演が三吉演芸場で行われ、桂歌蔵は「演芸場を建て替えた頃から師匠(歌丸)の雰囲気が柔らかくなり、我々も楽しく落語が出来た」と述懐している[8]。
特徴
一般的な常打ち小屋は1ヶ月間単位の公演期間のうち休演日を設けていないが、本館では役者のリフレッシュを目的として月曜日を定休日としている。役者へのギャランティを増やしモチベーション向上につなげるため、観劇料も他館に比べやや高めの設定になっている。公演内容は、一部が自己紹介を兼ねたミニショー、二部が芝居、三部が歌謡ショーの三部構成となっている[3]。
脚注
注釈
出典
- ^ “座席表” (JPEG). 三吉演芸場. 2018年4月26日閲覧。
- ^ a b (南区制50周年記念誌編集委員会 1994, p. 137)
- ^ a b c d “約80年の歴史を誇る「三吉演芸場」とはどんなところ?”. はまれぽ.com. 株式会社Poifull (2014年4月26日). 2025年11月1日閲覧。
- ^ a b c d 『神奈川県演劇史』神奈川県立青少年センター、1994年、20頁。
- ^ 『映画年鑑 1963年版 別冊 映画便覧 1963』時事通信社、1963年。
- ^ “横浜人図鑑第213回 本田玉江 三吉演芸場”. J:COMチャンネル (2016年12月7日). 2018年4月26日閲覧。
- ^ 『大辞林』(第2版)三省堂、1988年12月10日、2132頁。ISBN 4-385-14001-4。
- ^ a b “愛すべき師匠をしのぶ「桂歌丸一周忌追善公演」”. カナロコ (神奈川新聞社). (2019年7月17日) 2025年11月1日閲覧。
- ^ (南区制50周年記念誌編集委員会 1994, p. 138)
- ^ “レ・シェーナ”. ヨコハマ・りぶいん. 2018年4月26日閲覧。
- ^ 酒井翔平「三吉演芸場・幕上げ続ける 4代目社長・本田さん「大衆演劇の火絶やさない」」『東京新聞』2021年3月21日。2025年11月1日閲覧。
参考文献
- 南区制50周年記念誌編集委員会『南区制50周年記念誌 「南・ひと・街・こころ」~南の風はあったかい~』1994年6月20日。
外部リンク
三吉演芸場
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1973年(昭和48年)に義父が死去し、玉江が経営を引き継いだ。これを機に館内を改修して「三吉演芸場」と改称した。改修にあたっては家中の金をかき集め、親類たちから膨大な借金をして資金ぐりをした。玉江はこの借金のために、その後5年にわたり、下着以外に服を一切、買うことができなかった。 改修後は夫が1階の銭湯、玉江が2階の演芸場と分業で受け持った。しかしテレビや映画の普及によって演劇が衰退を始め、演劇場を借りていた興行師が興行を辞めた。玉江は以前から興行に興味を持っていたことから、「素人には無理」との周囲の反対を押し切り、さらに「アパートにでもしよう」という夫も説き伏せて、興行に乗り出した。時には客が3人しかいないときもあり、出演する劇団がやりにくく「今日は休ませて」と言われることもあったが、玉江は近所連中から親類に至るまで電話をかけて客をかき集めて、興行を続行した。そのような状況が、5年から6年は続いていた。
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