演芸の工夫
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落語家の桂歌丸は、幼少時より三吉演芸場で芝居を見ていたことや、改修後のこけら落としに出演した縁で、月末日の31日の独演会の開催を申し出た。玉江たちは「活気も出るし、演劇場の特色も打ち出せる」と快諾した。ところが演劇協会から「31日といえば楽日にあたり、その大事な日を渡すことはできない」と反発がかかった。そこで玉江は、31日は自分が劇団を買い取るといって、自腹で劇団に31日の分の出演料を払い、組合を納得させた。こうして1974年(昭和49年)から年5回、月末日に「桂歌丸独演会」が開催されるに至り、後に一門会として2014年(平成26年)まで40年間続いた。 玉江はさらに、大衆演劇の低迷による客数の減少を憂慮し、演芸場前の中村川を利用した船乗り込みを企画した。奉加帳を振り回して寄付を集めて、1975年(昭和50年)に船乗り込みを実現させ、当時売り出し前であった梅沢富美男が振袖姿で出演した。当日は交通整理の警官が出動するほど大賑わいとなり、マスコミの取材も殺到した。 その後も専属の劇団を結成したり、他の劇団を招いたりと、興行に工夫を凝らした。地域の老人たちを無料で招待したり、学校の生徒たちを団体割引にしたりと、地域の繋がりも重視した。酔っ払った客の入場を断るなど、雰囲気作りにも気を配った。 開館50周年記念には、先代夫妻の苦労話を自ら脚本として書き下ろした戯曲『年輪』を上演した。夫が肝臓がんを患ったため、「夫が生きている内に」と、50周年を1年繰り上げての上演であったが、上演中は夫は闘病中のために観劇が叶わず、1979年(昭和54年)に死去した。 1989年(平成元年)、大衆演劇の普及と定着に尽くした活動を評価され、横浜文化賞を受賞した。
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