演芸のキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 23:42 UTC 版)
「ジミー・ロジャーズ (カントリー歌手)」の記事における「演芸のキャリア」の解説
ロジャーズは幼いときから芸能に親しむようになり、その道に進むことの誘惑に抗しきれなくなっていた。13歳のときまでに2度、旅公演を組織して始めたが、父に連れ戻されることになった。父はロジャーズの最初の仕事として鉄道の給水係を与えた。その職にあっても鉄道労働者や放浪者から楽器の扱いを習った。季節労働者であるアフリカ系アメリカ人鉄道労働者の労働歌を聞くことも多かった。数年後にはニューオーリンズ・アンド・ノースイースタン鉄道のブレーキ係になった。これは長兄のウォルターが、メリディアンとニューオーリンズの間を走る列車の車掌となり、それまでの職を回したものだった。 ロジャーズが27歳の1924年に結核を患った。一時的に鉄道の職を失うことになったが、同時に演芸の世界に戻るチャンスが与えられたことも意味していた。ロジャーズは旅公演の一座を組織してアメリカ合衆国南東部を回ったが、ハリケーンでテントを壊されて、家に戻るしかなくなった。フロリダ州マイアミでブレーキ係として鉄道員に戻ったが、結局病気のためにこの職を失うことになった。その後はアリゾナ州ツーソンに移り、サザン・パシフィック鉄道で転轍手として雇われた。この仕事は1年も続かず、ロジャーズ一家(この時までに妻のキャリーと娘のアニタがいた)は1927年初期にメリディアンに戻った。
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