宋の失地回復戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 12:17 UTC 版)
金は、北に台頭してきたモンゴルの圧力、華北の河北と山東を荒廃させた1194年の黄河洪水を頂点とする一連の洪水、そして南部の淮河付近を悩ませた旱魃と大量発生したイナゴ・バッタの食害によって弱体化した。宋は、年に2回金の都に赴く使者から金の苦境を知らされ、金を挑発するようになった。この敵対行為は宰相の韓侂冑が扇動したものであった。しかしながら南宋の皇帝寧宗は戦争にほとんど関心を示さなかった。韓侂冑の監督のもと、戦争の準備は徐々に、慎重に進められた。政権は主戦派の英雄の岳飛を崇拝し、韓侂冑は対金戦争を正当化する史料の出版を指揮した。そして1204年以降、国境地帯に配置された宋の武装集団は金の集落を襲撃し始めた。1205年には韓侂冑が国防の責任者(平章軍国事)に任命された。宋は金領内の反乱軍に資金提供を行い、反乱勢力は宋に忠誠を表明した。このような衝突は、宋の官人の一部の反政府主義者の助けもあって徐々に過激化し続けた。その結果、1206年6月14日に対金戦争が公式に宣言された。宣戦布告の文書では、金が天命を失ったと主張し、金に対する反乱を呼びかけた。 畢再遇は、ほとんど防御されていなかった国境の泗州を占領したが、河北の金軍に対しては大きな損失を被った。金は宋を撃退して南下し、淮河のすぐ南の大運河沿いにある宋の領土の楚州を包囲した。畢再遇は町を守り、金は3カ月後に包囲から撤退した。しかし1206年の秋には、金は複数の都市や軍事拠点を占領した。金は中央戦線の宋領に対して攻撃を開始した。そのため宋軍は楚州を奪還する代わりに金に棗陽と光化軍を占領された。1206年の秋には、宋の攻勢はすでに悲惨な失敗に終わっていた。天候不順、物資不足、飢餓の蔓延により兵士の士気は低下し、多くの者が脱走を余儀なくされた。更に、宋が期待していた華北での漢民族の大規模な反乱は実現しなかった。 更に、宋側には大きな裏切りがあった。1206年12月、四川の総督であり、対金攻撃戦に最も期待されていた軍閥の呉曦が宋朝を裏切って金に投降した。宋は金の兵士を東部戦線から引き離すために呉曦の西方での活躍に依存していた。しかし呉曦は1206年に5万の軍勢で金の陣地を攻撃したが撃退されており、実際は守勢に立たされていた。呉曦の離反は西部戦線全体の損失を意味したが、呉曦が降伏し四川を金軍が支配する直前の1207年3月29日に、安丙の率いる宋側の官軍が呉曦を暗殺した。呉曦の死後、安丙が呉曦の地位を与えられたが西方の宋軍の結束は崩れ、その後の内紛で武将らは互いに反目した。 1207年も戦いは続いたが、同年末には膠着状態に陥った。宋は守勢に回り、一方で金軍も長江を越えて宋の内地には進出できなかった。この攻撃的な政策の失敗により、韓侂冑政権は終焉を迎えた。主和派の重鎮として対金戦争に反対した史弥遠は寧宗の皇后楊氏と共謀し、韓侂冑とその一派に対する粛清を企てた。1207年11月24日、韓侂冑は臨安の玉津園にて皇宮の衛兵に殴られて死んだ。共犯者の蘇師旦(中国語版)は処刑され、韓侂冑に関係した他の官吏も解任されたり、追放されたりした。宋金両国とも戦争継続を望まなかったため、結局和議に落ち着き、1208年11月2日、嘉定の和議(中国語版)が締結され、国境は戦前と同様に維持されるが、宋から金への歳幣が復活した。歳幣は銀5万両と絹5万本が増額された。金と宋の関係は、隆興和議での叔姪関係が伯姪関係に改められ、金が上席であることを明確にした。また、この条約では、金が今回の戦争の首謀者である韓侂冑とその加担者である蘇師旦の首を、宋が金に差し出すことが定められた。韓侂冑と蘇師旦の首は掘り出された死体から切り離され、一般に公開された後、金に届けられた。
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