宋の成立と中国再統一とは? わかりやすく解説

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宋(北宋)の成立と中国再統一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 21:15 UTC 版)

五代十国時代」の記事における「宋(北宋)の成立中国再統一」の解説

世宗の後を継いだのは、わずか7歳柴宗訓である。この状況見た北漢は遼の後押し受けて後周に対して侵攻してきた。これを討伐出たのが、世宗一の側近であった殿前都点検禁軍司令)の趙匡胤太祖)である。 幼帝戴いて遼と戦うことに不安を覚えた軍人達は、途中で趙匡胤強引に擁立した陳橋の変)。首都開封入った趙匡胤柴宗訓保護して禅譲を受け、宋(北宋)を建てた960年)。五代では禅譲はいくつ起きたが、これまでの禅譲では譲った皇帝後になって逆襲されることを恐れて殺されるのが当たり前であった。しかし柴宗訓無事に生涯全うし柴宗訓の子孫は南宋滅亡まで手厚く保護されている。 太祖それまで軍人政治執る五代傾向改めて、「文治主義」を打ち出した科挙整備地方軍隊弱体化中央軍強化節度使職の無力化などを行い内部固めた太祖世宗路線引き継いで統一への道を歩み始める。 まず、963年中国大陸中央部要地である湖北荊南併合した。このことで十国は東と西に分離され団結して宋に対抗することが難しくなった。次いで965年四川後蜀併合し当地豊かな物産強奪して戦費補充し971年には広東支配する南漢滅ぼした。そして975年華南における最大勢力南唐を滅ぼす。 これで残るのは北の北漢と南の呉越だけとなったが、太祖唐突に病死した。これには弟であり、第2代皇帝太宗となる趙光義による毒殺疑われている(千載不決の議)。 太宗太祖方針受け継いで統一進め978年呉越併呑し、979年北漢滅ぼして遂に統一完成した。唐の滅亡から72年後のことである。

※この「宋(北宋)の成立と中国再統一」の解説は、「五代十国時代」の解説の一部です。
「宋(北宋)の成立と中国再統一」を含む「五代十国時代」の記事については、「五代十国時代」の概要を参照ください。

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